「男たちの大和」アップしました
「映画館・MOVIE」に「男たちの大和/YAMATO」をアップしました。
当時、母の家が三田尻にあったので、伯父(肋膜で徴兵猶予だった)は大和が出航するところを見たという話だ。まあその後「宇宙戦艦ヤマト」にはまりまくったこともあって、「大和」というのは何となく、近い気分はある。そんなわけで、高校の感想文課題図書(5冊くらいの中から1冊選ぶ)で、「戦艦大和ノ最期」を書いて文集に載せられたりした。「大和」を選んだのが、1学年250人強の中で3人しかいなかったのだと記憶している(女子校だからね。この映画よりよほど面白いし考えるところも多いので、これはぜひ読んでみてください)。
まあそんなことはどうでもいいのだが。
ある一定層の「大和びいき」がいるのは事実で、おそらくそれは「滅びの美学」とやらが支えているらしい。だけどその「滅びの美学」とやらのおかげで殺されてしまった3000人(とそれに連なる人々)にはいい迷惑だ。「国」の存在意義が「国民を守る」ためにあるのだとするならば、「国民」に犠牲を——しかも「命」という犠牲を——強いる「国」など存在する意味がない。「国のために命を捧げる」という言葉は、一見美しいようだが、大きな矛盾をはらんでいる。そもそも「国」とは何か、それは「郷土」とはどうちがうのか、明確に説明できる人が、今の「愛国心」論議をしているだろうか? 「国」とはどのように定義しようとも、政体を含んだ国家そのものだ。それは「郷土」とはまったく違う。「愛国心」と「郷土愛」の間には、14万8000光年以上の距離がある。
何度でも確認しよう。「身捨つるほどの祖国」など、ありはしないフィクションなのだと。
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