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2006/11/24

存在の強さと熱

 今日の夜は某所で久しぶりに「野戦の月」のパフォーマンスを見る。いわゆるテント芝居(アングラ系)の劇団だけど、今日はイベントの一環で短いパフォーマンス。主催者の話では「一人だけ来て一曲踊るっていう話だったんだけど(笑)」、結局主力メンバー総出演のリキ入ったものになってました。考えてみたら4年ぶり。マリインスキー並だわな(笑)。今年の夏の公演に行き損なっちゃったからなんだけど。

 で、4年ぶりにそこの役者のリュウセイオー龍を見たら、意外にもドキドキしてしまったのさ。彼は小学生の頃から子役としてここの舞台に立っていたから、4年前に見た時も「おー、あの子がこんなに立派な青年になってー」という感慨もあったけれど、それ以上に「なんだかすごくいい役者になってきたなー」という期待もあった。それが今日見たら、本当にいい踊り手になってたの。今日はいわゆる「芝居」というよりも、何人かの役者が入れ替わり立ち替わり、自分の「役」の「セリフというよりも詩」を叫んで去っていく、という感じのパフォーマンス。彼の役は言ってみれば「死した赤子(せきし)」。初めは「女」がひきずるシーツにくるまって運ばれて来て、床の上でそれこそ殺虫剤をまかれたゴキブリのようにけいれんして悶えながら照明の外に捌け(舞台がなかったから)、最後に「サラリーマン」に背負われてやってきて、サラリーマンが消えた後に短いセリフを叫び、踊る。衣装は上半身が裸で、黒の学生服風のスラックス。

 ダンサーのように鍛えられているわけではなく、どこにでもいるやせっぽちでひょろっとした男の子(もう二〇歳は過ぎたのかな?)の肉体でしかないのだけど、その存在感が圧倒的なのね。もちろん小学生の頃を見てるから「こんな立派な青年になって」というおばさんのどぎまぎ感はあるけれど、スポットに照らされて、おそらくは即興で踊る姿が「圧倒的に存在を主張する」としかいいようのない熱のあるもので、すごく惹きつけられる。「もしかしたらこの年頃の男の子はそれだけで美しいのか?」と思うほどだったのだけど(まあ余分な肉はなかったけど)、それよりもその「熱」かな。いわゆる「美しい」ではない。そもそもアングラ系だし。でものけ反ってひきつるようなその踊りが、リュウセイオーの存在そのものだったの。「感動」とかいうことばではなくて、「引き込まれる」そのものというか。

 私はよく「存在の強さ」という表現の仕方をするけれど、わかりづらいと承知で説明をすれば、舞台の上で(ほかの場所でも)ほかの人がスミアミ60%くらいのときに、その人だけ90%くらいある、というイメージ。要するにほかの場所がグレイなのにそこだけ漆黒、というか。水墨画の中にある深紅の点、みたいなイメージでもいいや。「濃い」「暗い」じゃなくて、「強い」。なにもしなくてもただいるだけで「強い」。その強さって結局は、その人の内側にある「熱」によるものなんだろうか、とリュウセイオーが踊るのを見て、あらためて思った。「野戦」は全ての人がそれくらい「強い」けどね(笑)。
 
 舞台の上の誰から何を受けとるかは、本当に「相性」の要素が大きいと思うけれど、私が反応するのはまずそこなんだというのが、このところの確信。美しいとか素晴らしいとか上手いとかいうのは、そのあとの話みたい。胸が熱くなるとか、心が揺さぶられるというのは、そういう「熱」を直に受け取った時、だと思う。静謐な舞台の中にもその「熱」はあるから。

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コメント

一言!!
凄く〜よくわかる!!

投稿: 大木晴子 | 2006/11/24 21:49

せいこさん、まいどー♪
全員がスミアミ120の「野戦」(網点つぶれるがな)。キノヒュッヘでの単独公演、行けばよかったと思いましただ〜。

投稿: 綾瀬川 | 2006/11/25 10:42

うんうん!

投稿: urasimaru | 2006/11/25 11:04

urasimaruくん、サンクス!
相手が個人じゃなくてカンパニーでも、結局そのカンパニーに「熱」があるかどうかが美しさをも左右するのかなと、これを書いた後に思っただよ。

投稿: 綾瀬川 | 2006/11/25 20:02

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