カウントされる存在としての「私」
今日は「真夏日」だったらしい。猛暑、という感じはしなかったけど、ねっとりまとわりつくように湿度が高い。そういう今の季節は割と好き。空気の中に生気が満ちているような気がする。大好きなガクアジサイが咲き始めた。
写真は近所の家の時計草。小学生の頃、一鉢買ってもらって「とても珍しい花だから大事にしろ」と言われ、大切に大切に育てた。見るたびに切ない気持ちになる花。ここの家は塀いっぱいに這わせていて、一斉に咲き誇るさまはとても見事だ。
金曜日に報ステのクラスター爆弾特集を見ていたら、防衛大臣と航空幕僚長の発言があんまりホンネなんでびっくらこいた。リマで行われていた「クラスター爆弾禁止会議」の具合と、日本がクラスター爆弾廃止に反対してるって話の絡みなんだけど。「ひゃー」と思いながらもテレビ報道だったんで、ネットのソースがないかと思って探していて、みつけたのは「毎日新聞」の記事。これがいちばん詳しいかな。空幕長の発言はこちらの「朝日」記事を補完。防衛大臣の発言をきちんと抜いているところがあまりないんだけど、報道STATIONサイトの「きょうの報ステ」からカテゴリー別検索で特集を選ぶと出てくる5月25日付「これが日本のクラスター爆弾」にありました。記事に直リンできないんで、引用すると
久間防衛大臣は25日、「世界各国に迷惑をかけることはない。あとの被害が出るのも自国民ですから」と述べた。番組では、日本の陸上自衛隊が行った発射訓練を取材。
……ってことで。発射訓練はアメリカでやってました。
まあ「海岸線が長いから必要」っていうのは、地雷廃止を渋っていた時に同じことを理由にしていたわけで、「地雷がわり」にクラスター爆弾を考えてるんだな、というのがよくわかる。イメージとしては「まきびし」に近いんですかね。
防衛大臣にしろ、空幕僚長にしろ、「自国民」が死んでもOKです、っていうことをこれだけ堂々と言うようになったんだなー、というのはある種感慨深い。アメリカですら「敵国民はこれだけ殺せるけど、自国民に被害はありません」ってのが常識なのにねぇ。「防衛」大臣なのにねぇ。一昔前なら思ってても言えなかったよねぇ。最近そういうことが多過ぎる。
それにしても「国民」ってつくづく数なんだな、と思うわけです。1人の個人としてではなく、1体と勘定される「数」。何万人死んだ中の「彼」も、たった1人死んだ時の「彼」も、「彼」を愛していた人にとっては同じ重さなのに。死んでしまう「彼」を少なくするためにということばは美しいけれど、「少なく」という「数」でくくられた自分たちはその時点で「人」ではなくなってしまうんだな、と。
いやー、「日本はクラスター爆弾持ってるんですか!」ってびっくりしてる人が多かったのもびっくりだったけどね。北朝鮮のミサイル実験の時に「日本にはミサイルはあるんですか」って質問されて、それにもびっくりしたけど。まあでも、リマの会議で「日本の存在感」は示せたみたい。方向性を問わなければ(^^;)。
そうそう、何で↓ の記事に「ドイツ車」がくるかな、と思ったら、「メルセデス」に反応したらしい(笑)。いろんなものがくるなあ。
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