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2009/03/25

懺悔(グルジア映画)

 ふう。Iから校正ゲラ。明日の昼休みに読もう。忘れなければ……おい。

 今回の映画は結局「懺悔」。岩波での上映は終りましたが、全国でまだまだ上映中orこれから上映。公式サイトはこちらです。下の方にあるメニューの「劇場」で全国公開一覧が見られます。大阪は終っちゃったみたいですね。今週末までのところも結構あるし。横浜が来週からで、東京はあとは6月に下高井戸で。6月っちゃ、忘れちゃうな(笑)。待ってれば早稲田松竹あたりでもやりそうなんですが。できればもう一度見たいけどな。予告編も見られます。

 84年製作のグルジア映画で、ソビエトでは熱狂的なブームを巻き起こし、「ペレストロイカの象徴」と呼ばれたといわれる作品。確かにこれが公開できる(86年)という一点だけでも、かなり雪解けは進んでいたんだろうなぁ(85年がゴルバチョフ書記長就任)。スターリン時代を批判した、というのもまあ確かにそうなんだけど、そこに目を奪われると見えなくなることがたくさん詰まってるようにも思うわけです。スターリンとグルジアって本当にねじれてるし。

 この映画の主要部分は、ケテヴァンという女性が法廷で語る「市長の遺体を掘り起こした理由」(市長によって両親が粛正される経過)。しかしやはり、市長の息子アベルが秘密に(と思われる)に作った祭壇で行われるタイトル通りの「懺悔」の場面がやはり映画の中心なんだろう、とぢぶんは思うんです。
 ここで描かれている体制は「社会主義」というよりも「全体主義」と呼ばれるべきだろうとぢぶんは思うけれど、その「全体主義」を体現する市長=父と、若者らしい純粋で性急な正義感で向かってくるトルニケ=息子との間で揺らぐアベルの姿。これがキモかな、と。

 それは何もソ連やグルジアまで行かなくとも、日常の我々の姿でもあるわけですよ。「個人の幸せ」のためにあるはずの「公」のために「個人の幸せ」を犠牲にするというパラドックス。それが独裁者の手で行われるか、民衆相互の無言の圧力の中で行われるかという違いはあるにせよ、本質的なそのパラドックスはどんな社会も抱えているので。

 その「全体主義」に対置されるのがキリスト教(的なもの)だというのも、何とはなしにソ連らしい気がします。メタファーとしてはキリスト教的なものの方が多いので、そちらに明るい人にはもっといろいろ面白いだろうなぁ。

 映画そのものとしてもとても面白いですが、「この場面は何を表しているか」がいちいちわからないと楽しめないタイプの人には向きません(笑)。ミヘイルと市長、ミヘイルとサンドロの関係も今一つよくわかんないしな。なんとなくはわかるけど。

 岩波のプログラムは採録シナリオが載っていて便利ですが、今回は使用曲一覧が出ていてさらに便利でした。まどろみながら悪夢を見るニノ(ケテヴァンの母)の傍らでサンドロが弾くドビュッシーの「雪の上のあしあと」がとても印象的。

 なんとなく既視感はあるけど、たとえばクストリッツァからドタバタと景気の良さを抜いたらこんな感じかな?(←抜いたら何が残るのかはアレだが)
 サンドロ(ケテヴァンの父で粛正される画家)がいかにもキリスト教的殉教者という風貌でかっこいいんですが、早い段階で「あ、トニー・ラズロ」と思ってしまったら、どうしてもトニー・ラズロにしか見えなくなってしまって困りましたよ(汗)。

 そんなわけで、滅多に見られる映画でもないので、お近くで上映の際にはぜひ(かな?)。

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