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2009/04/30

昭和という時間

1 グリムス=プレミアム=7代目、3齢。プレミアムになってから成長が早いような。

 後楽園近辺で歩きながら考えたことをいくつか。

 「昭和」と言った時に、ぢぶんの時代区分としてそれは戦前〜戦中、つまり敗戦前の1945年までをイメージする言葉であったわけです。なんとはなしに、1945年までの出来事は昭和で(「226事件は昭和11年」とか)、その後は西暦で覚えているというのが端的にそれを表しているのですが。

 ところが最近の「昭和特集」とか「昭和のなんちゃら」という場合に、それが古いところで50年代も終わりの頃か、多くは高度成長期〜80年代を指してるのかなあ、と感じるんですね。20〜40年代ではなくて。焼け跡ももう一息ついて、「貧しいけれどがんばってた時代」か、「上り調子でがんばってた時代」か、バブルの頃。人々が「繁栄」にまっしぐらだった頃。その価値に疑いがなかった頃。その価値に疑いがなかったが故に道を誤った時代ではなく。

 その理由のひとつには、そうした企画を打つ側の中核が、世代的にぢぶんと同じくらいになってきて、「イメージできる「昭和」」というものが手前に引き寄せられているということはあると思うんですね。作り手自身が身近に感じる時代=昭和、という。だから妙に「懐かしさ」に溢れていて、美しさが先に立ってくる。

 以前より指摘されていることではあっても、歴史上の区分を「昭和」(あるいは「明治」「大正」そして「平成」)という言葉でくくることで表されていること/見えなくなっていること、をもう一度たぐりよせてみるのも必要なのかなあ、と。

 帰ってきてからマクシーモアの訃報を読む。これも時の流れを実感することでもあるのかな。

 今日の買い物。
 

 これで新聞の切り抜きを捨てられるな(笑)。

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