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2009/06/04

天安門と二つの映画

 20年前の今頃、僕は連日テレビに貼り付いていた。大学を出て出版社に就職して、反戦運動ってヤツに関わり始めてまだ1年は経っていなかった。あの広い広い広場が人々で埋め尽くされていた。エキストラなしの人々で。そしてあの白い像があった。いかにも美大生が急ごしらえに作ったような、象徴的な女神像が。

 僕の周りにはいわゆる「中国派」の人は少なかった……というよりもほとんどいなかったのだが、それでも「人民解放軍」に対するある種の思い入れのある人は少なくなかった。「まさか人民解放軍が」というのはあちこちで聞かれた言葉であったが(念のために加えておけば、それは「まさか中国政府が」ということではまったくない。中国政府の対応は「まさか」ではなく、解放軍はそれに抵抗し民衆の側につくだろうと思われていた(らしい))、人民解放軍=中国軍という認識しかなかった僕にしてみればそれは妙な印象であったけれど、むしろ八路軍=人民解放軍という気分はいわゆる「昭和一ケタ」世代を中心に存在していた。

 どんな軍隊であれ、軍隊は軍隊だ。

 僕(ら)にとって、「天安門事件」とはそのことを再確認させるものでもあった。

 リチャード・ゴードンとカーマ・ヒントンによるドキュメンタリー映画「天安門」。DVDになってるとは思ってなかったけど、さすがに絶版らしくえらい値段がついてます。僕が見たのは97年の公開当時だと思う。東中野Boxで見たのだけは覚えてるんだけどなぁ。映像資料に事件後のインタビューを加え、歴史的な経緯を解説した95年製作のこの映画は、「189分」という長い尺を持っている。見た当時の記憶はあまりないが、今見たら当然ながらまた違う感想だろう。プログラムを眺め渡しながら思い出すのは、僕とほぼ同世代の学生リーダーたちよりも少し年長(当時30代前後)の「広場」の中心を担った人々−侯徳健や劉暁波といった人々の存在感だ。そして、今にいたるまで明らかにされてはいないが、プログラムの中で浅井隆がいうように、虐殺された人の多くは「広場の中」でではなく、「広場の周辺」で、「広場に軍隊を入れまいとする市民」だったことを忘れてはならない。

 もうひとつ、映画。
 大林宣彦監督の「北京的西瓜」。八百屋のオヤジと中国からの留学生達の交流を描いたこの映画は、実験的な小品−佳作というよりもC級の−となるはずだった。中国ロケの直前に起きた天安門事件が、この映画の性格をまったく変えてしまった。「1+9+8+9+6+4=37」秒間の空白の後、映画は虚構から現実に引き戻され、僕らは否応なしに事件と、留学生たちの悲しみとに向き合わされる。事件性を持った特異な映画として記録に残されるよりも、なんの事件も起こらずにC級の駄作で終った方がすべての人にとって幸せではあったろう。これは、僕が公開時に見た最後の大林映画だが、これが事件をリアルで知らない人たちにどのように受け止められるのか、実のところさっぱりわからない。しかし「日常」の中になんのことわりもなく降ってくるものの恐ろしさだけでも感じることができれば。

 「天安門」のプログラムを眺めながら、あああそこは「The Gate of Heavenly Peace」というのか、と思う。

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