チャイコとマラーホフと、されど。
えーと、まあいろいろありまして、テンション超低めのままに「チャイコフスキー」に行って参りました。
テンション低いというか、体調が悪い、というべきなんだろうな。ここのところずっとそうではあるんですが、とにかく集中力がまるでなくて、ぼーっと眠いのがこの1週間ほどひどくてですね。シンデレラは「ぼーっ」と見てても楽しめたからいいんですが。
いや、面白かったです。今日は久しぶりに1階の後方でした。通路より後ろが祭典席で来るのは珍しかったから、今日は申込が多かったんだろうな……。
で、そういう場所から、ほとんどオペグラなしで観たので(←最近、遠い席でも使わずにぼーっと観てることの方が多い)、群舞は面白かったですが、細かい部分まではあまりわからなかったことも。
最初の幽体離脱(←ちがう)が全然わかんなかったよ! ひー。エイフマンは「アンナ・カレーニナ」しか観ていないけれど(多分)、群舞の使い方に共通性を感じた。丸いと思っていた緑のテーブルが楕円だったのにびっくりした。
チャイコフスキーについては、「DANZA」のバックナンバーの特集(←なかなか有益)と、ユーラシアブックレットで軽く予習した程度。ということもあるのかどうなのか、「チャイコフスキー」というよりも、あるいは「マラーホフ」というよりも、「ひとりのホモ・セクシャルの青年」の物語を見た、という気がします。もちろん、カラボスや白鳥など、チャイコフスキーである故の引用も数多くあるのですが、自分の予想していたよりももっと普遍的な(あるいは一般的な)印象を受けました。
というのは、自分の曖昧なジェンダー・アイデンティティによるんだろうなあ、なんてこともぼーっと考えながら。
チャイコフスキーに則して言えば、最初に紫の衣装で現れたフォン・メック夫人は、彼にとって「リラの精」のイメージだったのかな。元々恋愛関係にはないパトロンですが、援助し、見守り、という存在はリラっぽいかと。カラボスとオーロラを行きつ戻りつするのが妻。白鳥の群舞は、彼の「芸術の核」のようなものであり、心の中の安らぎであり。美しく、無垢で、孤独な彼だけの世界を象徴するもの。黒鳥を模した黒い男性群舞は、「同性愛=背徳」である時代におけるそれイメージなんだろうなぁ。くるみ割り人形から生まれた王子は彼のキスで目覚めるけれど、人形だから心を持たない。モーツァルトくらい享楽的になれればもう少し楽だったろうに、と思ったのは緑のテーブルの場面。
……というようなことをぼんやり思いつつ、しかしそうしたモチーフにも関わらず、感じていた「物語」はもっと一般的な、つまり「チャイコフスキー」という固有名詞を持たない「青年」であったわけです。
それにしても、舞台は徹頭徹尾チャイコフスキーの悲劇なわけだけど、妻だって相当な被害者だよなぁ。夫の精神を壊したのは妻かもしれんが、妻の精神を壊したのも夫だよなぁ。
マラーホフは言うまでもないですが、「分身」のデュデクがよかったです! かっちょええなぁ。前回ベルリンをみたのは「リング」なんだけど、デュデクが出るまでに自分が力尽きてたよ……orz。サイダコワもクノップもよかった。サレンコもよかったけど、出番が少なかったなぁ。王子の役名の中にある「ジョーカー」は1幕の黒鳥の時に出てくるのではなく、緑のテーブルの場面の方だったのかな。1幕のはロットバルト=分身の方だったんだな。
最終日とて「SAYONARA」の電飾と金吹雪。「See You Again」の電飾は最近プラスされたのかな。
とかなんとか。
今回の予習本。
ユーラシアブックレットの「チャイコフスキー」。手軽で便利だが、それ以上を求めてはいかんような。
| 固定リンク
コメント