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2011/04/01

カルミナの続き。

 2時半頃、「もしかして早退できるか?!」みたいな一瞬があり、そしてそれはまさに一瞬で過ぎ去り、結局9時近くまで残業。いっそ諦めがつくっちゅうもんだな(笑)。
 そんで丸木美術館のブログで、佐藤忠良氏の訃報を知る(詳しくはこちら)。
 
 さて、OFCのカルミナ・ブラーナ。ぢつは「カルミナ」を聞くのは初めて。今回のいちばんの自分の不安は「音楽、ダイジョブかな?」というところ。それは楽団や合唱団のことではなく、震災以降、自分の気持ちがクラシックをほとんど受け付けなくなっていたこと。特に弦楽器がダメで、ヴァイオリンを聞くと不安に押しつぶされそうになり、N響アワーも5分も聞いていられないほど。手持ちのクラシックで聞けたのは、当日の深夜に会社の会議室で寝つけずに聞いていたiPodのペルトと、バッハのフルート・ソナタだけ。

 でもそれは有り難いことに杞憂で済みました。最初の「陽の中の対話」がピアノ協奏曲だったのも多分よかったし、「カルミナ」の合唱はむしろ心を落ち着かせてくれた。これなら4月のバヤも大丈夫そう(←実は結構心配してた)。

 元に戻りまして。「カルミナ」を聞くのは初めてでしたが、歌詞の対訳がプログラム(無料配布)にしっかりと載っていたので、開演前と休憩中にとにかく読んで。「ロースト・スワン」ってこれかあ(笑)、とか。もちろん、聞きながら「今何曲めでこの歌」なんてのはわからないけど、流れていく精神自体は受け止めやすかったように思います。「ロースト・スワン」だけは堀内さんのアレがコレだな(笑)とは思ったけども。

 見終わってすぐのツイートで(これこれ)、「これはもう一つの「春の祭典」」と書いたわけですが。「春の祭典」といえば自分にとってはベジャールのアレ(で……)。あとはニジンスキー復刻版くらいしか見てはいないのですが、なぜここで「春の祭典」という、作品というより「言葉」(より正確にいえば「概念」的なもの)が出てくるかといえば、それはまさにこの佐多さんの作品が、「生命の祭り」であるから、なんです。大地の芽吹き、性の目覚め、青春の謳歌。ストラヴィンスキーとニジンスキーの「春の祭典」はむしろその原題が意味する通り「春の生贄」と訳すべきでしょうし、そのように作られていますが、ここでは「青春」に留まらぬ生命そのものが「春」であり、舞台の上を駆け抜けていくダンサーたちと、音楽がそれを謳歌し、さらに観客が謳歌する、「祭典」であるように、自分には感じられました。それは場面が進むに従って、曲想や肌に近い色の衣装などにもよるのでしょうが、むしろギリシャ的なイメージといいますか、どこかあっけらかんとしたおおらかで楽天的な(それってギリシャ的なのか?)高揚を生み出していったように思います。

 多分、続く。

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