アレクセイの泉の見えないけれど見えるもの
そういえば、仙台のエレクトロンホールはどうしたろう、と思ってサイトをのぞいてみたり(これ)。こちらはまだ復旧の見込みが立っていないようです。10月末ころまで全館使用中止、となっています。
GWに美輪サマの「愛の讃歌」を見た時に、仙台公演(7月)は、劇場の施設の具合で中止、となっていたんですよ。ぢぶんは、美輪サマの力強さにかなり元気づけられたので、仙台の中止はとても残念だったんですが、こればっかりはいたしかたないかなあ。それどころじゃないといえばないかもしれない。
「アレクセイと泉」を見た帰り、後ろのカップルの話が聞えてきました(主に女性の方)。
いわく、「何が言いたいのかさっぱりわからない、食事の場面なんか全然おいしそうじゃないし、普通の生活ならさっさと引っ越せばいいじゃんねー」と、正確じゃないけどそんなようなこと。これが本当に「まくしたてる」ような物言いだったのでちょっとびっくりして振り返ったら、見た感じは20〜30代くらいの女性かなあ(←外見年齢からの推定に自信がない)。ぢぶんが振り返ったせいか、男性の方が、「すごい難しい映画なんだよ」とよくわからないフォローをしてたりして。
まあ、「耳に挟んだ」話なのでどうこういうのもアレですが。
でもまあ、なんというか、映画でも舞台でも「何が言いたいのかわからない」っていう人は結構いるように思うんですよ。印象論ですけども。だけどそんなに「答え」って与えて欲しいものなのかな、と。
アレクセイの村に、放射能による障害だとかガンだとかっていう人がたくさんいて、食卓でガイガーカウンターが「びー」って鳴ってて、こんな障害のある子豚が生まれましたとか、そういう映画を期待してたんだろうなあ、と。
そういう映画はそういう映画でいいんですよ。必要だと思うし。でも、そういう映画だって、見る側の想像力とアプローチがなければ「答え」なんか出て来ない。そんで、「声高な物言いはどうか」だの「これはプロパガンダ」だのいうレッテルを貼るんだ、今度は(「声高な物言いは」って「声高」に言う人多いよなぁ)。
それは「若い人」ちうことではなく、世代や性別に限らず、であるように思います。なんかこう、座席に腕組んで座って「さあ感動をくれ!」「何が言いたいのか言ってみろ!」というような。感動なんて、もらうもんでも与えるもんでもなくて、見てる側が勝手に「する」ものだと思うんですけどね。
ちょっと逸れたな。
「アレクセイ」の話でいえば、この映画でいちばん恐ろしいのは、放射能が「誰にも見えない、匂いもない」というのはこういうことだ、と目に見える形になっていることかと思います。つまり、暮らせてしまうんですよ。鼻にツンとくるとか、赤くもやがかかってる(黒沢の「夢」のように)となれば、そこで暮らそうという人はぐんと少なくなる。でも、見えない、匂わないということは、意識から追い出してしまえば、あたかもそこに放射能がないかのようにふるまうことができる。しかも、今まさに、自分たちはそういう中に暮らしている。
でも完全に意識から遠ざけることはできない。それは何より「泉が汚染されなかった」ということひとつをとっても、「泉だけがきれい」という形で周囲の放射能を顕在化させている。子どものいない村の風景も、過去の思い出に生きる女たちの笑顔にも、いわゆる「過疎の村」とは違うその「未来のなさ」が現れている。緩やかな、終末へ向かっていく日々。
……やっぱり、プルトニウムには赤く色をつけておくべきだったのかねぃ?
ほかにもいろんなことがちりばめられた映画だけど、とりあえずこんなところで。3日まで東中野ポレポレ座で。その後、各地で上映会があるようですので、ぜひ(上映予定)
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