« ゴヤの本 | トップページ | げいしゅん。 »

2011/12/31

それでは、よいお年を。

Img_3056

 東寺です。池の方から講堂を見たところ。

 講堂というのは、ご存知の梵天/帝釈天をはじめ、大日如来を中心にたくさんの仏像で立体曼荼羅を組んであるところ。その後ろ(というか前というか)にある金堂(本堂)は本尊である薬師三尊を礼拝するところ。

 博物館/美術館は仏像を見にいくところ。お寺は仏に会いにいくところ。

 正直、ナントカ展で見る仏像というものはもうあきらめた。あそこでは美術品を見ることしかできない。仏(像)に「会い」たければ、お寺に行くしかないんだな。それは周囲の「観客」だけがそうしているのではなくて、展示方法もそうなのであって。お寺という、本来あるべき場所にある仏像は、ちゃんと会えるように安置されている。高さや角度や建物に入る光の具合が、そのようにしつらえてある(だから「宝物館」の類いはイマイチなんだよなー。やっぱお堂でないと)。

 美術品として見た場合、やはり天部の多様な姿に目を引かれ、如来像は面白くないと思いがちなんだが(そりゃ「悟った中年」だからねえ)、本来あるべき序列に配置されると、その像の「重み」がすとんとくる。

 今年は心の揺れが大きかったせいか、わけもわからず泣くことがあった。6月の平泉でも、8月の浦上でも、東寺でも。小さい頃から暗示にかかりやすい子だったというのもあるけれど、像であれ石であれ、対話することはあった。もちろんそれは、その声が(例えばジャンヌ・ダルクのように)外から聞こえてくるわけではなく、自分の中で自分自身と対話しているにすぎない。にしても、今年はまっすぐになにかすがるような、そんな気持ちが驚くほど沸き上がってきた。

 中尊寺の庭の地蔵菩薩の前でも、子どもたち(生きている子もそうでない子も)をお救い下さい、と訴えずにはいられなかった。同様に金堂の薬師如来の前でも。お薬師さまは病苦を平定する願を立てた仏。これから起こるかもしれない今年を起点とした災厄に、祈ることはひとつしかない。1200年の間、どれほどの人がこんなふうに祈ってきたのだろう。気が遠くなるほど長い間に、気が遠くなるほどたくさんの、想いの込められた場所。

 講堂の大日如来と相い対しながら、それが宗教であれなんであれ、なにかの「救い」というものを信ずることなしに、人は生きていくことはできないのだろう、と思う。人智を尽くした後、最後の最後にすがるなにか。


 大晦日から正月は、恒例の1泊旅行です。今年は年賀状でも「おめでとう」という気持ちにはなれない、という話もちらほらと聞きます。
 が、あえて。ここは「あえて」であっても口にすべきだろう、と思います。言霊ということがあるにせよ、ないにせよ、口から出した言葉はそれなりの力を持つのだから。

 どうか、よいお年を。


Img_3078_2

 食堂(じきどう)の前に線香や蝋燭に混じって蓮華がありました。フローティングキャンドルとして、水に浮かべて使います。珍しかったので、お賽銭がわりにひとつ供養(100円)。


|

« ゴヤの本 | トップページ | げいしゅん。 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/101065/53611949

この記事へのトラックバック一覧です: それでは、よいお年を。:

« ゴヤの本 | トップページ | げいしゅん。 »