「エロス+虐殺」とりあえずここまでで。
さて、がんばりますよー。明日はマーシャのライモンダだし(←結局行く)。
「エロス+虐殺」の続き。
伊藤野枝の岡田茉莉子がいかにも女学生。上京してくる時は「はいからさん」(しかも袴が膝丈なのは70年ミニ仕様?)で、かつての沢口靖子のようなぴっちぴっちの女学生なんだが、最後まで(人妻風のスタイルに変わっても)女学生みたいだったなあ。ほっぺたがふっくらとして。それに比べるとやや痩せ形の逸子の方は社会にまみれたリアリストっぽい。
いわゆる「妻」の保子を入れた3人の女たちに大杉が提示する「自由恋愛(フリーラブ)」の条件は3つ。3人がそれぞれに経済的に自立すること。性的関係を含めて互いの自由を保障すること、大杉は誰とも同居しないこと、だったかな……(←忘れるのが早い)。
いや、今なら別段かまわんと思うんですが、大正初期の時代ですからね。女が「経済的に自立する」ってのは、今と比べたらそりゃハードルが高すぎる。簡単に言うなよ、簡単に( ̄▽ ̄)。そんで「僕は3人を公平平等に愛する」ってアンタ、ないないないない!(←思わず画面にツッコミ)。そう言った男は何人も知ってるが、そうだった男は知らんぞ、オレは( ̄▽ ̄)。
細川俊之(若い)じゃなかったら、即座にエイリアンびんただな。顔の真っ正面からびたーん!と(草刈正雄でもちょっと許しそうかもー)。
結局は、大杉は官憲に目をつけられて文筆活動ができないし、野枝はこれも収入がないし、結局経済的には新聞記者の逸子に二人してぶらさがる格好になるわけで。そりゃ同志も怒るわ。
まあ映画の範囲での話ですが、大杉の「自由恋愛論」は、大杉自身の観念的/理論的に構築されたものと、本人のモテモテっぷりとが、幸か不幸か一致して実践されちゃったもんだから、日陰茶屋での刺しつ刺されつまで突っ走ったけれど、大杉にとってはあくまで「理論の実践」なんだよな。だから同志に「保子さんが泣いてるじゃないか!」みたいな倫理で迫られても動じないし、逸子に「理論の破綻」を指摘されても引けない。理論の破綻はアナキスト大杉の死でもあるから。
で。日陰茶屋で、大杉が刺される場面は3度、シチュエーションを変えて繰り返します。最初は、眠る大杉の首に逸子が匕首を走らせ。2度目は風呂場で大杉が逸子の手を持って、自らの腹を刺し。3度目は、戻ってきた野枝が大杉の首に貫通させ。
トークで監督はこの場面を、最初は逸子の手記の通りに、2度目は破滅志向のある大杉から見た事件を、3度目は野枝の立場で撮った、と。ある意味で、事実はどうでもいいんですな、この場合。3人が3人とも大杉を刺したかった=自分の手でこの破綻に決着をつけたかった。この映画が「物語」ではなく「夢」であればこそ、それがかなうというわけで。
戸板の上で逆大の字になった大杉の「早く医者を呼べ」ってのが大マヌケでいいなー。
ご存知の通り、大杉は一命をとりとめて、結局野枝ともども甘粕大尉に虐殺されるわけで、それも象徴的に描かれます。
ではなぜ彼らは甘粕に殺されねばならなかったか。
実際、映画だけだとこれはちょっとピンとこないかもしれない。70年当時なら共有できたのかもアヤシイとは思うがなー。ぢぶんはトークの最中にすとん、と落ちたけど、自力で辿り着くのはキツイかなあ。日本だと「アナキスト」はどうしても「無政府主義者」の訳語のイメージに規定されちゃうし。
ものすごく大雑把にいえば、「自由恋愛論」というのは、戸籍制度と家父長制に真っ向から刃を突きつけるものなわけです。この二つの頂点にあるのが天皇制ですから、天皇の憲兵たる甘粕においては、これを放置することはできない。
映画の野枝らのパートは、大杉の「春三月縊り残され花に舞う」という、大逆事件で検挙されなかった自らをうたう場面から始まります。大逆事件から甘粕事件へ。天皇制による二つの虐殺事件の間を生きた大杉と野枝。二人のエロス=性/生はいわゆるラブシーンをほとんど伴わずに描かれ、逆に現代の和田と永子は、その永子の脱ぎっぷりにもかかわらず、全く歓びを伴うことがない。
「エロス+虐殺」というタイトルは、エロスを実践することによって虐殺された大杉と野枝ばかりではなく、エロスそのものを虐殺されている和田と永子をも内包しているように思うのです。
「エロス」の問題が残っちゃったけど、それは別の話でいいや。とりあえず、打ち止め。
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