エロスの続き。
今日も1日、遅々として進まぬ片づけものなど。でも台所はだいぶすっきりしてきたかな。吊り戸棚の中は割れ物ゼロにできたし、それに伴って15並べ式にあれこれ動かしたり、油で汚れた物を処分したり。
……15並べって、今もあるんかいな。画面でやるヤツじゃなくて、プラスチックの薄い板の。小さい頃、山口に帰るときによく、新幹線の中でやってたけどなあ。
というわけで、昨日の続き、「エロス+虐殺」について。
公開は1970年。映画内での「現在」は1969年。ライターやマッチでの火遊び意外に為すところのない大学生和田(原田大二郎)と、彼が出会った女子大生永子(伊井利子)。「生きる目的」や「やりたいこと」どころか、「今やること」すら見つけられない彼らの底の知れない虚無。二人の無意味で自暴自棄にも似た「遊び」が延々と繰り返され、さらに彼らを絶望させるかのよう。原田大二郎がこんなにニヒリストになるとは思わなかったなー。それも、例えば眠狂四朗のようなかっこいいニヒルではなくて、本当に、ただひたすら虚しいだけという。そして「あたしに火をつけられる?」と繰り返す永子は、情熱そのもののような伊藤野枝に心中であこがれを持っている。この二人の「遊び」と、永子の売春相手であるCM監督の畝間とのパートが、野枝と大杉のパートに挟み込まれ、時に重なりあって共演する。
アフタートークで吉田監督は、「夢」のような作品にしたかった、と語った。これは「物語」ではなく「夢」である。「夢」の中ならば、現代に生きる我々が野枝や大杉と共に生きることができる、と。
野枝のパートの方は、桜の中での大杉とのやり取りから遡って、野枝が九州から上京し、青鞜に入社し、辻と暮らし、大杉と出会い……と日陰茶屋までが概ね順を追って進んでいくが、野枝が新幹線で上京し、大杉が高速道路上で襲われるなど、彼らは時に現代に越境し、野枝は新宿で永子にインタビューを受けさえする。
一緒に見た友人が「むしろ現代の方に違和感」と言う通り、和田と永子、永子の友達の恵のセリフは戯曲的で、しかもアングラ系の、延々と意味があるのかないのかわからないことをしゃべり続けるというアレだ。映画のセリフというのはリアルな会話であると、心のどこかで思い込んでいるので、いきなりコレをやられると「なんだなんだ」という気になる。そこへ持ってきて原田大二郎の棒読みだし(わざとか?)。ただその「現実感の無さ」が逆に「リアル」であるような気もする。
例えば、恵が売春相手のはずの(やらずに帰っちゃうんだけど)畝間に向かって延々と、今朝起きるところから今に至るまでを微細もらさずしゃべり続けるさまは、ツイッターやブログとどこがちがうだろう。「することが何もないの、こわい、助けて」と泣く彼女は、ネットの中に無数にいるのではないか。
つづく。早く終らせてボリショイに戻らないとー。
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