雨さえも
で、富山の話はおいといてですね、っていつまでおいとくかはおいといて。今日見て来た映画の話など。
「雨さえもーーボリビアの熱い一日」
えーと、まあ一日の話じゃなかったような気もするけど、それは「広場占拠」の日のことなのだろうな。
コロンブスの「新大陸発見」と、ラス・カサスらの、先住民虐待に対する異議申し立てを描いた映画を撮影するために、ボリビアのコチャバンバを訪れた映画監督のセバスチャン、プロデューサーのコスタ、それにスタッフ・俳優たち。予算を節約することしか頭にないコスタは、カリブ海での物語をボリビア山中で撮影することにも、エキストラの先住民たちの扱いにも無頓着。
折しもコチャバンバでは、水道事業の民営化によって、多国籍企業による水の独占化が問題に。日に日に高まって行く、先住民たちの抗議行動。その中心に、エキストラに応募し「族長」アトウェイ役に抜擢されたダニエルもいた。ダニエルの娘ベレンもエキストラながら迫真の演技でコスタやセバスチャンの心をとらえる。撮影が進む。映画の中のラス・カサスやモンテシーノスの演説。先住民への過酷な扱い。現実の抗議行動への弾圧。激化する抗議と弾圧の繰り返しの中で、撮影半ばでダニエルが逮捕され、道路は封鎖、撮影隊は「安全なロケ地」へ向かおうとするがーーー。
が。
今回はPARC(アジア太平洋資料センター)の水映画祭(こちら)の一環として1回のみの上映。今日はプレ企画としての特別上映だったんだけど、会場発言で「見るのは2回目」という人がいたと思ったら、去年のラテンビート映画祭でやってたんですねー。
ぶっちゃけ、「水問題に関する映画」に太田昌国さんのトーク付きということで、ドキュメンタリーかフィクションかもあやふやなまま出かけていったんですが(劇映画でした)、すごく面白かったです。脚本が、ケン・ローチ作品の常連さんときいて、なるほどなー、と(←みんななんとなく腑に落ちてた)。ぢぶんは、ラテンアメリカにかけては、コロンブス以前から今にいたるまで、まったく不調法ですが(おいおい)、太田さんは数少ない回路なんだよなー。
モンテシーノスの演説に心を動かされ、長年映画化を望んで来た熱血監督のセバスチャンや、一見、先住民に「理解」を示し、デモの映画を撮りたいという、メイキングビデオを撮影しているマリア。しかし、半端に「出来上がっている」彼らよりも、劇中劇という歴史の縦の軸、現在の抗議行動という横の軸に動かされるコスタの心の微妙な変化にこちらも動かされていきます。それはコスタだけじゃなくて、ベレンもそうだったと思うんだよねー。おそらくロー・ティーンの彼女がデモに参加するのは、抗議行動のリーダーである父ダニエルの影響だけではなく、映画の中での先住民への虐待とそれへの反乱という経験が、大きく関わっていたのだろうと、ぢぶんは思います。太田さんの話では、アトウェイの反乱はじめ、劇中劇はかなり歴史に忠実に構成されているそうです。
会場発言でもいくつか「印象的な場面」の話が出たけど、ぢぶんは広場占拠の翌日、人のいない広場をカトリックの神父が「終わりました、水はあなたがたのものです」といいながら歩く場面だったなあ。それはやっぱりモンテシーノスたちへのある種のオマージュだと思うんですよね。
タイトルの「雨さえも」は、水事業を独占する多国籍企業によって、井戸どころか、雨水をためることすら許されない、というダニエルの演説から。次は空気すら独占されるのではないかという彼(ら)のアジは、先住民の現実の閉塞感そのもののようにも思えます。99分の映画だけど、2時間以上分の密度があったな。
この先、見る機会があるのかないのかわからないけど、機会があればぜひ。てか、岩波でやれよ、と思わなくもない。
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