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2013/08/20

「広島爆心地中島」(建物疎開)

 つづきです。

 さて、この「広島爆心地中島」ですが、自費で出版された「爆心地中島」と「慟哭の悲劇はなぜ起こったのか」の2冊をまとめたものになっています。後者の方は「建物疎開動員学徒の原爆被災を記録する会」によるもので、30ページほどのもの。爆心地近くでの死者に建物疎開に動員されていた生徒が多く、しかも引率の教師を含めて全滅のケースが多かったことに注目し、動員がどのように決定され、実施されたのか、当日建物疎開を行っていた学校、動員された人数、死亡者数などをまとめ、かつ「当日出動しなかった学校」についての証言を集めています。これも、45年7月の建物疎開の進捗状況の航空写真にそれぞれの学校のいた位置を重ねることで、イメージしやすくなっています。

 私事ですが(私事以外の何があるのか)、ぢぶんの父親というのは終戦時16歳で渋谷区の生まれ育ちですが、戦時中の話というのはほとんど「建物疎開は、壊すのは楽しかったけどほこりがすごくて大変だった」みたいな話でしたねぃ。
 なので、建物疎開は男子中学生の仕事、のように思っていたんですが、この本によると「中・高等女学校、国民学校高等科の一・二年生」とあって、女子もかなり動員されていたようです。考えてみれば、「原爆の図」の「少年少女」は建物疎開の生徒たちの絵だもんなあ……(←なんとなくつながってなかった)。

 建物疎開は、日中に、空襲があった場合に逃げ場のない場所で行うために、当初より生徒に当たらせるのは学校関係者の反対が多かったそうです。それを広島地区〔陸軍〕司令部の強い要請により、「中国地方総監及び広島県知事は八月三日から連日義勇隊三万人、学徒隊一万五〇〇〇人の出動を命令した」(「広島県史」より)とあります。
 で、多くはこの命令によって出動したわけですが、命令を拒否した学校もいくつかあります。郊外への援農に出している、学校が現場から遠いために作業効率が悪いなどの理由で。校長が前夜の警戒警報時より、翌朝空襲があるのではと感じ、一晩悩んだ末に、朝の警戒警報の時点で生徒を教室待機にさせ、叱責の問い合わせに対応している間に原爆が投下されたという、比治山高女のような例もあります。どこの学校も、原爆どころか、空襲があるとわかっていれば生徒なんか出さないでしょうが、それでもこの時点で命令拒否を貫いた教師たちがいた、ということはすごいな、とも思うわけです。

 長崎では建物疎開での原爆死をきかない、とは、この本で読んで「そういえば……」と思ったのですが、それは投下地点が長崎市街ではなくて浦上だったこともあるのかな、とも。だだっぴろいデルタが複数ある広島と、長崎とでは地形も違うしなあ。

 広島での動員学徒の原爆死が約7200人、うち建物疎開による動員が約5900人(長崎における動員学徒の原爆死が約1300人)というのは、いかにターゲットになる場所に生徒が動員されていたか、ということだよなあ。学校関係者の反対は理にかなっていたわけで。

 手記の中には、それこそ正田篠枝の「大き骨は先生ならむそのそばに小さきあたまの骨あつまれり」の歌を彷彿とさせる情景があって、なんともいえんようになるわけです。

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