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2013/09/10

白塗剃髪とか。

 同僚に大駱駝艦のファンがいまして。ぢぶんも麿さんは好きなので、情報交換したりはするんですが、彼女にいわせると「山海塾は高尚すぎて敷居高い〜」なのだそうで。まあ見たことはないんで、そういう印象、ということらしい。ぢぶんも、大野一雄は映像でしか見てないし(映画3本かな)、大野慶人はちょぼちょぼ見て、田中泯(は、舞踏ではないらしい)も1度しか見てないんだけども、例えばそれらは「高尚すぎる」ものになるのかどうか。少なくともそれらの目指すものなり作風なりというのは、大駱駝艦とも山海塾とも違っていて、それが黒藤院という枠になるとまた違う方向なのか、まあいろいろと思ってはみたりするのですが。

 それはそれとして。

 ただ、ぢぶんが大駱駝艦を見ないのは、女性の舞踏がダメなんですよ。いや、女性でも着衣だったら普通にコンテンポラリー的に見られるんだろうとは思うんですが、白塗りにおだんごの、あの格好がどうしても生理的にイヤだ。ぢぶんがその手の舞踏手を見るのは「渋さ知らズ」のライブくらいだから、そんなに本格的に見てるわけでもないけど、やっぱり無理。

 で。北九州の「うむすな」の初演時に、アフタートークがあったんですが(聞き手が誰だか忘れてしまった〜)。その中で、「白塗り剃髪は、個性を削ぐようでいて、実際は身体の個性を際立たせる」という趣旨の話が出まして。それはぢぶんも常々実感してることなので「うんうん」と聞いておりまして(だからその、結局まだ半分(しかもわかりやすいとこ)しか同定できてないだろ、とかいうツッコミはなしで。プログラムに写真がないから名前がわからないだけで個別識別はできてないわけじゃないわけじゃな……エコーしつつFO)。

 えーと。多分、その話の流れでですが、「脱ぐことによって性別がフラットになる」というような趣旨の話があったように思うんですね。肝心なとこなんだけど、随分前なんで正確に覚えてないんですが。メモとれよ、ぢぶん。山海塾だと裳(上半身裸)もあれば、腰巻き(上半身裸)もあり、やや古めの作品だとツンもあり、なんですが、同時にドレスもあれば紐付きビスチェや貫頭衣もあって、それらが自然な感じに着こなされて、舞踏手本体はむしろユニセックスな(あるいはノンセクシャルな)イメージになる(いつも裳姿の天児さんは例外として)。北九州でのトークでだったかは失念しましたが(粗末な頭だなー)、天児さんもそこいらは、ある程度意図してるようなこともおっしゃっていたような。それが」を感ずる元になっているんだなー、などと納得しつつ、ぢぶんにとって最も好ましいのは(あるいは居心地のいいのは)「性別のない」状態なので、山海塾の舞台の心地よさはそこいらにもあるんだなあ、と。

 一方で思ったのは、女性の場合は逆に「脱ぐことによって性別が強調される」ということなんです。いや、男性だってそりゃツンまで取っちゃったら強調されることになるのかわかりませんけども(ただ日常を振り返るに、そういうわけでもない気がする)。白塗りだろうが、金粉だろうが、「脱ぐ」行為ないし状態によって、より「女性性」を強く感じさせる肉体になる。女性の場合はむしろ、着込んでいくことで、ユニセックスあるいはノンセクシャルな状態に近づいていくように感じます。そういう「あらわになった」女性性、というのは、ぢぶんにとってはそれだけで暴力みたいなもんなんだよな……。それとまあ、男女両方が同じ舞台に乗ることで、相対的に「男女二分法」の関係が表出する、というのもあるんですよね。男性だけだと「男性」ではなかった肉体が、そこに女性が乗ることによって「男性」化するみたいな。まあこれはジャンルを問わずにそういうものだという気もしますが。

 やや傍証的にいえば、たとえば「珍しいキノコ舞踊団」には逆にそれほど「女性性」は感じないわけですよ。あれはやっぱり女性だけだからというのがあると思うんだよなあ。作品によるのかもしれないけど(2回しか行ったことがない)、あけっぴろげというかあっけらかんというか。「ポップ」というのか、それは。あの世界は割と好きなんだよな。なかなかそこまで手が回らないけど。

 まあね。今回のトークで「山海塾の舞台を見ると、癒やされるというか包まれるというか、そう感じるのは自分が年を取ったからでしょうか」「僕も年を取ったからですよ」というようなやりとりがありましたが、まあそういうもんかもしれません。

 てなことを、つらつらと。

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