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2014/08/06

原爆の子 1

 新藤兼人平和映画祭で「原爆の子」と「はだしのゲンが見たヒロシマ」の2本立てを見ました。まずは「原爆の子」の方から。これも、断片的に例えばテレビの新藤兼人特集番組なんかで見たことはあったのですが、通しで見るのは初めて。

 ロビーに貼ってあった、プログラムか何かのコピーに寄れば、1952年8月6日に広島の福屋……というのは今もある百貨店のことだと思うんだけども、そこで最初の上映が行われたとか。同じ「原爆の子」を原案に取りながら、新藤監督と日教組とで折り合いがつかずに(どういう折り合いだったんだろう)、「原爆の子」と「ひろしま」の2本の映画ができたんだけど、音楽は両方伊福部昭が担当しているという。
 そのプログラムに出ている「あらすじ」(「KINENOTE」に出てるのと同じ)は、実は映画と(特にラストが)違っていましてですね……。いいのか。

 舞台は1952年。原爆で家族を失った孝子(乙羽信子)は、瀬戸内海の島で(おそらく親戚の家に住み)、小学校の先生をしている。夏休み、4年ぶりに広島を訪れ、自宅跡に花をたむける。そして平和公園の橋のそばで物乞いをしている男をみかけるが、それはかつて孝子の家で働いていた岩吉(滝沢修)であった。岩吉は息子夫婦を原爆で亡くし、自らもやけどで視力をほとんど失って働くこともできず、孫の太郎を孤児収容施設に預けていた。施設へ行って太郎の様子を見た孝子は、自分が引き取って島へ連れ帰りたいと岩吉に提案するが、岩吉は受け入れない。

 その晩孝子は、幼稚園の教員をしていたときの同僚で今は助産婦をしている夏江(斎藤美和)の家に泊まり、翌日、彼女が所在を知っているというかつての教え子3人を訪ねる。父が原爆症で寝付いている三平は、靴磨きをして家を助けていたが、ちょうどその父の死に孝子は巡り合わせる。敏子も身寄りを失って教会に引き取られていたが、原爆症でいつ死んでもおかしくない状態だった。平太も両親を失ったが、兄二人と姉に囲まれて、元気いっぱい。ちょうどその夜、姉の咲江(奈良岡朋子)が嫁入りだという。家の下敷きになって脚を悪くした咲江の結婚に、長兄(宇野重吉)に勧められるまま、祝いの夕食を共にする。

 翌日、再度岩吉を説得にいく孝子。岩吉はやはり固辞したが、孝子が帰った後、隣に住むおとよ(北林谷栄)の説得で、ついに太郎を手放す決心をする。その夜、しこたま飲んで眠ってしまった岩吉の家から、ろうそくの火の不始末(が暗示される)で出火する。おとよが気づいて岩吉を運び出すが、手遅れだった。おとよの知らせに駆けつけた孝子、夏江、太郎に看取られて、岩吉が亡くなる。
 翌朝、白木の箱を下げた太郎とともに、孝子は連絡船に乗り、島へ帰る。

 原爆投下前後の様子も孝子の回想として出てきますが、分量的にはかなり少ない。けども、時代の「近さ」を感じさせる迫力はあります。1952年当時の広島の風景がそのままロケ撮影されているのも貴重。原爆ドームの上(多分)に登って遊んでいる子どもたちの姿もあり、中沢啓治氏の「よく登って遊んでいたが、ある時上級生が落ちてあばらを折ってから出入りが禁止された」という話を思い出したり。復興が進みつつも街のあちこちに瓦礫のままの場所が残っていたり、橋の上から褌いっちょの男の子たちがバンバン川に飛び込んで遊んでいたり。岩吉とおとよの掘っ立て小屋は、石垣の感じからすると広島城(もちろん再建前)の近くかな、とか。平和資料館も建築中で、おそらく失対事業なのだと思いますが、三平の母親がその現場で働く場面もあります。できかけの資料館の階段を三平の弟が急を知らせに走って行く場面は印象深い。

 ちょうどその頃の平和公園建設中の写真が資料館にあったので。こちらこちら。これだけでも映画の雰囲気が伝わるような。今となっては、ある意味では「風景が主役」ともいえるくらいに印象的なんだよな……。

 とりあえず続きますが、明日からもう半年ぶりの東バ祭ですのよ……。


 

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