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2015/05/20

大野一雄と大津幸四郎 2

 ダンチェンコが開幕してますが、自分は今回土曜ソワレ一回きりです。白鳥は予習兼ねてなんで、気合い入れて見ますよ−。山海塾と重なってなけりゃなあ。

 つことで、続きです。

 前回聞いたトークともかぶっていた話ですが、大野一雄という人は基本的に(というか多分全部)即興の人で、「魂の風景」も全部即興。最初の撮影のときはそれがどういうことか今ひとつわかってなくて、最上川を下る(上る?)船の上で踊る場面が最初だったんですが、まずリハで1度やって、リハだから大津氏はまだカメラを組み立てて、しかしその1回めが非常によかった(でも撮影できてない)。何度リテイクしても最初よりよくならない。そうこうするうちに日が暮れてきて、夕闇の中で撮ったのがいい感じだったのでそれを使った、と。

 で、それに懲りて次からは全部一発撮り( ̄▽ ̄)。いくつかリテイクした場面もあったそうですが、基本は一発で、動く範囲(大体ここら辺で、くらいの)とコンセプトみたいなものは打ち合わせをするんだけど、後はどう動くかわからない大野氏を大津氏がひたすら撮る(←監督はほぼ傍観)。それをラッシュで見た時に、監督は舌をまいたそうです。フレームだけではなくて、特に距離の取り方が絶妙だと。
 ドキュメンタリーのキャメラマンといってもいろいろで、インタビューを中心に撮っていくのとは違って、こういうハプニング的なものはやっぱり三里塚なんかの経験が活きてるんだろうなあと自分などは思ってしまうんですが、監督はむしろ、水俣の経験が活きてる、というんですね。被写体というか、撮る相手との距離の取り方(心理的な)において。それはそれで、確かになあ、という。

 大津氏自身が話していたところによると、映画の中盤にある小学校の「むすんでひらいて」の場面(というのが、実際の撮影ではいつ頃なのかはわからないんですが)、あそこで初めて大野氏が、大津さんに向けて踊った、と言うんですね。向き合って、というよりも、話しかけるように、というニュアンスだと思うんですよ。撮りながらそれを感じたので、そこから撮り方が変わった、というような。
 監督の話では、そういう具合でとにかく大野氏から出るすごい気というか、オーラというか(なんと言ったか正確には覚えてないんですが)、大津さんは撮影しながらそれを浴び続けたと。それが後年の「ひとりごとのように」につながったということなんですね。

 やっぱり「大津幸四郎」といえば硬派のバリバリみたいな印象で、大野一雄とはあまり結びつかないように思っていたんですが、一連のトークで腑に落ちたように思いました。

 「ひとりごとのように」では、大野一雄氏が、音楽が終わろうがなんだろうが延々と踊り続ける場面が何度かでてくるんですが、平野監督がちょっとそれを彷彿とさせるようなしゃべりっぷりだったなあ( ̄▽ ̄)。マイクもすぐに降ろしちゃって、そのまんまでしゃべってるという。

 平野監督によれば、大野一雄氏の踊りというのは、外へ外へと開放的で、一言で言えば「愛」であると。で、慶人氏の踊りは逆で、内へと向かっていってそこから何かが生まれるという、どちらかといえば「暗黒」の方。それは自分も最初に映画を観たときから感じていて、だからこそ慶人氏に興味を持って何度か観に行ったりしたんだけど、一雄氏が亡くなったことで「大野一雄の伝道師」みたくなっちゃって、ちょっとつまんなくなっちゃったなあ、というのも正直なとこだったりします。

 あ。「魂の風景」の方、慶人氏が白塗・剃髪で背広着てる場面が一箇所出てくるんだけど、やっぱり「すけきよ!」って思ってしまって、犬神家の呪いもなかなか解けないもんだと思ったりもしました( ̄▽ ̄)。

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