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2017/04/21

ふたりのイーダ その1

 映画「ふたりのイーダ」は1976年公開。公開時は小学生で、公民館で上映があって見たかったのだけどどういう具合か見られなかったので、ずっと気にはなっていた、という作品。昨年来何度か名画座の特集上映にかかっていて、昨年新文芸坐で観たのだけれど何か書いている暇もないままにしてしまって、今回、ラピュタにかかったのを失業中を幸い、観てきました。当日は客席にプロデューサーだった方がいらしていて挨拶をなさいました。山田洋次監督のお嬢さんが「映画にして」と監督にお願いして、一度は山田監督と松谷みよ子さんとにそういう約束があったとか。しかし松山善三監督からの申し込みがあって、ならばと山田監督が「脚本協力」という形で入ったとのことでありました。

 原作は自分も好きだったのだけど、そんで探せば文庫があるはずなんだけど、かなり忘れてました(笑)。原作の「現在」1969年から7年後の「現在」。幼い頃に被爆したのは「近所のりつ子おねえさん」ではなく、兄弟の母という年齢になり、椅子はさらに長く待たされたという。

 雑誌記者の美智(倍賞千恵子)は取材のため、子どもの直樹(上屋健一)とゆう子(原口祐子)を広島郊外に住む父母(森繁久弥・高峰秀子)に預けることに。早速チョウを追いかけて飛び出した直樹は歩く椅子(宇野重吉)を見かけ、後を追って廃屋にたどりつく。逃げ帰った直樹だが、翌日、いなくなったゆう子を探しに廃屋にいくと、椅子とゆう子が遊んでいる。椅子は「この子はうちのイーダ」だと言って直樹を追い払う。直樹は恐怖と不安からその夜熱を出す。

 一方、美智は広島で、「友達」のカメラマンの広岡(山口崇)とともに「瀬戸内の若者」の取材を続ける。途中、住職を訪ね、被爆経験について取材しようとするが、追い払われる。そんなことを取材してどうする、という広岡に、美智は自分が被爆者であり、今回の取材は原爆病院での検査を兼ねてのことだと打ち明ける。

 直樹が廃屋から持ち帰ったカレンダーを見た祖父は、直樹にその日付けが原爆が落とされた日であること、原爆の被害の様子などを写真集を見せながら語る。廃屋に住んでいたおじいさんとイーダも広島で亡くなったんだろう、と。
 椅子は相変わらず、ゆう子をイーダだと言ってきかない。苛立った直樹は椅子に写真集を見せながら、イーダは死んだ、あれは妹のゆう子だ、と言う。椅子は「イーダだという証拠に、背中に三つほくろがある」と言うが、直樹がゆう子のワンピースを脱がせると、そこにほくろはなかった。動かなくなった椅子に、直樹は後悔する。
 その夜、帰ってきた美智は、両親に広岡と再婚すると告げるが、両親からは被爆を理由に反対される。椅子はイーダを探しに広島に向かって歩き出す。

 8月6日。家族の名が刻まれた墓石をさすりながら泣き崩れる母。それを遠くから見守る広岡に、母が「あの人にもお線香をあげてもらいなさい」と言う。灯籠流しが始まり、母・美智・直樹は灯籠を流す。ゆう子を抱いた父がそれを眺めながら、広岡に家に来るように言うが、広岡はあらためて正式にプロポーズに伺うと答える。
 苦労の末に広島にたどりついた椅子は、イーダを見つけることができず、しかし何があったかを理解した。川に落ちた椅子は川底で死んだイーダと出会う。川底の死者たちは椅子に、自分がここにいる、骨を拾ってくれと家族に伝えてくれと口々に頼む。

 美智の検査結果は「異常なし」だった。親子3人は河口に近い砂浜で海水浴をする。美智はふと直樹が熱を出したことに不安を覚える。直樹は河口で打ち上げられた灯籠の中にバラバラになった椅子を見つける。直樹は椅子を組み立て直すが、椅子はそのまま海の向こうへ流れていくことを選ぶのだった。

 

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