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2017/04/22

ふたりのイーダ その2

 まあそんな感じで。

 原作では確か、ゆう子の背中にほくろがないのを確認した椅子がばらばらに壊れ、東京に帰った直樹のところにりつ子から、実は自分がイーダだったという手紙が届いて終わったと記憶。つまり、椅子が広島に向かう後半が「つけたし」なわけですね。映画ではイーダは死んだことになっているけど、2歳で孤児になったりつ子=イーダを子どもを亡くした夫婦が育て、しかし2歳ではもう被爆前のことは(椅子のことも家のことも)覚えていなかった。そして白血病を発症したりつ子は病気と闘う宣言をして終わる。

 これが1969年から76年という「歳月」であるわけです。2歳だったりつ子は26歳から33歳になって、「近所のお姉さん」から「お母さん」の歳になる。時間は流れている。人も、人の記憶も、人の心持ちも動いている。人々は原爆から背を向け、明るく楽しい「瀬戸内の若者」の記事を読む。しかし例えばそれは62年の「その夜は忘れない」に現れるような、ひりひりした目の背け方とはまったく違う。

 とはいえ、美智をイーダにしてしまうと、祖父母があの廃屋に住んでいたことになってしまうので、そうもいかない。じゃあイーダは結局どこにいるの? ってことでああなったんだろうなあ。椅子はファンタジーの住人、直樹は現実の住人。同じ日の広島で椅子は死者と出会い、直樹は(子どもなりに)自分のルーツと祖母の悲しみを見る。そして河口という「広島の出口」で2人は再会し、自分たちの世界に帰っていく。

 美智はシングルマザーだけど、前夫というか、兄妹の父親については全然触れられてません。離婚なのか死別なのかも含めて。両親が再婚に反対するのは「被爆者だから」だけど、美智が自分が被爆者であることを認識したのは最近の健康診断の結果だから、それが理由で別れたのではないのかもしれない。りつ子の抱いた健康への不安は、二世である直樹への不安となって美智に引き継がれる。観る者は、直樹の発熱は椅子とのやりとりでのショックが原因だとわかっているけど、美智には自分の健康不安が払拭された直後の新たな不安となって淀んだままとなる。

 構成としてはそういうとこだけど、とにかく直樹役の上屋健一くんがすっごくいいんですよ( ̄▽ ̄)! 当時どれくらいなんだろうなあ。10歳より上には思えないんだけど。ちょっと「ケンちゃん」ぽいのは時代の流行りもあるんだろうと思うんですが、動きも表情もほんとにいいんだこれが。セリフは多少回りきらないところもあるけど、そりゃ「演技」じゃなくても普通に子どもはそんなくらいだよね、っていうくらい。椅子相手のとっくみあいみたいな難しい動きもがっつり。特に最後の海水浴の場面、流されてきた椅子の部品を見つけてから組み立てるまで、椅子を傷つけてしまったことへの深い後悔からくるテンションのバカ高さが好きだわー( ̄▽ ̄)。直樹はきっとあの時、椅子さえよければ、イーダじゃないけどゆう子の椅子として連れて帰るくらいのことは思ったんじゃないかな。
 ゆう子はもう可愛いからいいです( ̄▽ ̄)。あの年齢だからね。ほくろ確認のところ、原作の「背中にむしむしついてる」「いやあ」ってワンピース脱がすの好きだったから、そのやりとりがなくなっててちょっと残念。

 美智が広島でお坊さんに原爆の話を聞かせて欲しい、って頼むときに、坊さんが「天皇陛下だって戦争だからしょうがなかったっておっしゃってる」って言って振り払う場面が。もちろん坊さんの方は、若いモンが興味本位で聞きやがって、って思ってるからで「しょうがなかった」なんて全然思ってないわけで。その後自分でマッチを擦って、火の中に自分の指を突っ込んで、「お前もやってみろ。みんなこうやって焼かれたんだ」(大意)って言う。美智は坊さんの剣幕と火の恐ろしさに逃げ出してしまうけど、こんな風に天皇発言が出てくる。

 多くの子どもをトラウマに落とし込んだらしい椅子は宇野重吉。自分が原作を読んだときは、椅子ってこう、ナンバ歩きみたいに前後の脚をいっしょに右側、左側、ってカタカタ歩くと思ってたんですね。したら、座面を下にぐーっと下げる→前後に脚が開く→座面を上げる→脚がすぼまる力で前に進む、っていう、尺取り虫的な(ちょっと違うけど)歩き方でびっくらしましたよ。確かにその方がリアリティがあるような気がする( ̄▽ ̄)。
 
 祖父の森繁は農業試験場みたいなところで現役(嘱託?)勤務。小学生の孫がいるならそれくらいの年齢かな。仕事中だってのに、雨が降ったら気象台へ「孫が虫取りするのに雨止むのか」って難癖みたいな電話するし、虹が出たら家にかけて「外に出て見せろ」っていうし、ちょっとは仕事しろよ( ̄▽ ̄)っていう。高峰秀子の祖母がきれいでねえ。2人が孫のために年甲斐もなく捕虫網振り回してチョウを追い回す場面は、物語的には「むだ」かもしれないけど、すっごくいい場面なんだよなあ。こういう「むだ」をきちんと入れられたのが、この頃の日本映画でもあって。そういえば最初の「黒い水」だけは解決を忘れられてたみたいだな。

 でまた、ところどころが大林宣彦でねえ( ̄▽ ̄)。直樹が熱を出したときにみたコラージュによる悪夢とか、川底でイーダの横顔がどーーん!!っと出てくるとことか、そりゃ「ハウス」だろ、っていう。電気笠かぶったクンフーみたいなのも出てきたな。イーダが76年、ハウスが77年なのでハウスの方が後なんだけど、ある種時代の流行技術みたいなものもあるのかしらん。

 でね、映画や漫画や本による子どものトラウマってね。大概は「トラウマ」なんてもんじゃなくて「怖くてしかたなかった」くらいの意味だから。それはあった方がいいんです。断然いい、と自分は思います。

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