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2018/10/14

横浜のプティパ・レクチャー

 つことでだいぶ時間が空きましたが、この夏の東バのプティパシリーズ。プティパ記念ガラを目黒で2回、横浜で1回、掛川で1回行いましたが、うち目黒と横浜を1回ずつ観ました。3箇所それぞれにキャストも演目もビミョーに違っていて、目黒はオケなし、ほか2回はオブジャニコフの指揮でオケつき(横浜は神奈フィル)。目黒のバレエ劇については前回書きましたが、横浜ではフョードロフによる1時間ほどのレクチャーがありました(通訳付きなので実質30分くらい)。横浜に関しては東バというよりも県民ホールの企画だったようですね。去年の忘年会の時に友佳理さんが、ホールからオファーがあったので企画を出したようなことをおっさってたような気もします(うろ覚え)。

ニコライ・フョードロフによるレクチャー「プティパ~クラシック・バレエ黄金時代の幕開け」

 ご存じの通り、フョードロフはボリショイのかつてのプリンシパルで、友佳理さんのおつれあいですが、現在はほとんどバレエ史家のようになってます。なんかワガノワ(スクールでなく)の著作権管理かなにかをやってたりとか、いろいろ謎の人(笑)。今回の一連のプティパシリーズについては振付指導もしてますし、企画段階から彼の手腕がいろいろ発揮されていたのでは、と思います。とにかく1時間じゃ足りない、いくらでも喋るよ! という前のめりの60分( ̄▽ ̄)。目黒でのバレエ劇ではバレエ裏方史的な話が多かったですが、今回はプティパの一生を辿るお話。

 まあ既にそんなに覚えてはいないんですが( ̄▽ ̄)、印象に残ったところで言うと、ロシアに行くまでとロシアに行ってから結構長いこと「うだつの上がらない人」だったということですね。お兄ちゃん(ダンサー)の人気が高すぎて目立たないというか。契約する先契約する先どんどん倒産しちゃうし、ダンサーとしてもこれ以上は出世しないのが自分でもわかっちゃうくらい。知人のつてを頼ってロシアに売り込みをかけたらロシアから招待状が来て、それに「プティパ様」とファーストネームが書いてなかったので、兄の方だろうけど書いてないし! ちょっとでも若い方が仕事があるだろうし! てわけで5歳サバよんでロシアに行って契約したはいいけど、ロシア側でも「あれ?」って思って、そのうちにまあこれ以上は成功しないよなって双方が思ったという。でもパントマイムに秀でていたので、そっち方面で人気が上がって首がつながったというのは目黒でも語られた通り。ちなみに、5歳サバよんでた件は、生誕100年だかなんだかでロシアで記念行事をやるためにマルセイユに出生証明書を請求して初めてわかったとか( ̄▽ ̄)。のんきだなあ。

 そんなプティパですが、監督就任後もダンサーには人気があったそうで。その後、劇場総帥に軍人が就任し、彼とトラブルになって結局劇場を追われるわけですが、この時の公演のエピソードも面白かったんですが、詳しくは忘れちゃった(笑)。でも「私を追い出そうとしてる!」って息巻いたときにすでに80過ぎてるからなあ。いやそもそも総帥の方針もムチャクチャなんだけど。

 で、「benefit公演」と言っていたかと思いますが、「記念公演」についての在り方のお話もありました。今回の横浜のプティパガラはまさにその形式に則っていて、最後にプティパの肖像が映し出され、一同その功績をたたえるというものでした。「ほほう、これがそうか」と思ったのですが、思い返せばベジャールの追悼公演の時も同じ形式でしたな。ロシアではこうした「記念公演」がいろいろあるというお話であったと思います。

 質疑応答で、32回転について質問した方がいらっさいました。それによると、プティパは技をひけらかすタイプを非常に嫌っていて、現在のように32回転がいろんな演目で行われるのは、後世につけ加えられていったのではないかとのことでした。「プティパってば、最後は32回転させときゃいいと思ってんだろー」と思っていたのはワタクシによる冤罪でした。ごめんね、プティパ( ̄▽ ̄)。そんで、ロシア人で初めて32回転をやったのはクシシェンスカヤだということで、目黒でのクシシェンスカヤdisが回収されたなー、と思ったけどもしかして再disだったのかしらん。

 あ、あとこれは目黒での方の話で思い出したんですが、「プティパ」という名前は「プティ・パ」つまり「小さいパ」だっていうのは、言われるまで全然気がつきませんでしたのん。

 

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