2017/04/22

ふたりのイーダ その2

 まあそんな感じで。

 原作では確か、ゆう子の背中にほくろがないのを確認した椅子がばらばらに壊れ、東京に帰った直樹のところにりつ子から、実は自分がイーダだったという手紙が届いて終わったと記憶。つまり、椅子が広島に向かう後半が「つけたし」なわけですね。映画ではイーダは死んだことになっているけど、2歳で孤児になったりつ子=イーダを子どもを亡くした夫婦が育て、しかし2歳ではもう被爆前のことは(椅子のことも家のことも)覚えていなかった。そして白血病を発症したりつ子は病気と闘う宣言をして終わる。

 これが1969年から76年という「歳月」であるわけです。2歳だったりつ子は26歳から33歳になって、「近所のお姉さん」から「お母さん」の歳になる。時間は流れている。人も、人の記憶も、人の心持ちも動いている。人々は原爆から背を向け、明るく楽しい「瀬戸内の若者」の記事を読む。しかし例えばそれは62年の「その夜は忘れない」に現れるような、ひりひりした目の背け方とはまったく違う。

 とはいえ、美智をイーダにしてしまうと、祖父母があの廃屋に住んでいたことになってしまうので、そうもいかない。じゃあイーダは結局どこにいるの? ってことでああなったんだろうなあ。椅子はファンタジーの住人、直樹は現実の住人。同じ日の広島で椅子は死者と出会い、直樹は(子どもなりに)自分のルーツと祖母の悲しみを見る。そして河口という「広島の出口」で2人は再会し、自分たちの世界に帰っていく。

 美智はシングルマザーだけど、前夫というか、兄妹の父親については全然触れられてません。離婚なのか死別なのかも含めて。両親が再婚に反対するのは「被爆者だから」だけど、美智が自分が被爆者であることを認識したのは最近の健康診断の結果だから、それが理由で別れたのではないのかもしれない。りつ子の抱いた健康への不安は、二世である直樹への不安となって美智に引き継がれる。観る者は、直樹の発熱は椅子とのやりとりでのショックが原因だとわかっているけど、美智には自分の健康不安が払拭された直後の新たな不安となって淀んだままとなる。

 構成としてはそういうとこだけど、とにかく直樹役の上屋健一くんがすっごくいいんですよ( ̄▽ ̄)! 当時どれくらいなんだろうなあ。10歳より上には思えないんだけど。ちょっと「ケンちゃん」ぽいのは時代の流行りもあるんだろうと思うんですが、動きも表情もほんとにいいんだこれが。セリフは多少回りきらないところもあるけど、そりゃ「演技」じゃなくても普通に子どもはそんなくらいだよね、っていうくらい。椅子相手のとっくみあいみたいな難しい動きもがっつり。特に最後の海水浴の場面、流されてきた椅子の部品を見つけてから組み立てるまで、椅子を傷つけてしまったことへの深い後悔からくるテンションのバカ高さが好きだわー( ̄▽ ̄)。直樹はきっとあの時、椅子さえよければ、イーダじゃないけどゆう子の椅子として連れて帰るくらいのことは思ったんじゃないかな。
 ゆう子はもう可愛いからいいです( ̄▽ ̄)。あの年齢だからね。ほくろ確認のところ、原作の「背中にむしむしついてる」「いやあ」ってワンピース脱がすの好きだったから、そのやりとりがなくなっててちょっと残念。

 美智が広島でお坊さんに原爆の話を聞かせて欲しい、って頼むときに、坊さんが「天皇陛下だって戦争だからしょうがなかったっておっしゃってる」って言って振り払う場面が。もちろん坊さんの方は、若いモンが興味本位で聞きやがって、って思ってるからで「しょうがなかった」なんて全然思ってないわけで。その後自分でマッチを擦って、火の中に自分の指を突っ込んで、「お前もやってみろ。みんなこうやって焼かれたんだ」(大意)って言う。美智は坊さんの剣幕と火の恐ろしさに逃げ出してしまうけど、こんな風に天皇発言が出てくる。

 多くの子どもをトラウマに落とし込んだらしい椅子は宇野重吉。自分が原作を読んだときは、椅子ってこう、ナンバ歩きみたいに前後の脚をいっしょに右側、左側、ってカタカタ歩くと思ってたんですね。したら、座面を下にぐーっと下げる→前後に脚が開く→座面を上げる→脚がすぼまる力で前に進む、っていう、尺取り虫的な(ちょっと違うけど)歩き方でびっくらしましたよ。確かにその方がリアリティがあるような気がする( ̄▽ ̄)。
 
 祖父の森繁は農業試験場みたいなところで現役(嘱託?)勤務。小学生の孫がいるならそれくらいの年齢かな。仕事中だってのに、雨が降ったら気象台へ「孫が虫取りするのに雨止むのか」って難癖みたいな電話するし、虹が出たら家にかけて「外に出て見せろ」っていうし、ちょっとは仕事しろよ( ̄▽ ̄)っていう。高峰秀子の祖母がきれいでねえ。2人が孫のために年甲斐もなく捕虫網振り回してチョウを追い回す場面は、物語的には「むだ」かもしれないけど、すっごくいい場面なんだよなあ。こういう「むだ」をきちんと入れられたのが、この頃の日本映画でもあって。そういえば最初の「黒い水」だけは解決を忘れられてたみたいだな。

 でまた、ところどころが大林宣彦でねえ( ̄▽ ̄)。直樹が熱を出したときにみたコラージュによる悪夢とか、川底でイーダの横顔がどーーん!!っと出てくるとことか、そりゃ「ハウス」だろ、っていう。電気笠かぶったクンフーみたいなのも出てきたな。イーダが76年、ハウスが77年なのでハウスの方が後なんだけど、ある種時代の流行技術みたいなものもあるのかしらん。

 でね、映画や漫画や本による子どものトラウマってね。大概は「トラウマ」なんてもんじゃなくて「怖くてしかたなかった」くらいの意味だから。それはあった方がいいんです。断然いい、と自分は思います。

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2017/04/21

ふたりのイーダ その1

 映画「ふたりのイーダ」は1976年公開。公開時は小学生で、公民館で上映があって見たかったのだけどどういう具合か見られなかったので、ずっと気にはなっていた、という作品。昨年来何度か名画座の特集上映にかかっていて、昨年新文芸坐で観たのだけれど何か書いている暇もないままにしてしまって、今回、ラピュタにかかったのを失業中を幸い、観てきました。当日は客席にプロデューサーだった方がいらしていて挨拶をなさいました。山田洋次監督のお嬢さんが「映画にして」と監督にお願いして、一度は山田監督と松谷みよ子さんとにそういう約束があったとか。しかし松山善三監督からの申し込みがあって、ならばと山田監督が「脚本協力」という形で入ったとのことでありました。

 原作は自分も好きだったのだけど、そんで探せば文庫があるはずなんだけど、かなり忘れてました(笑)。原作の「現在」1969年から7年後の「現在」。幼い頃に被爆したのは「近所のりつ子おねえさん」ではなく、兄弟の母という年齢になり、椅子はさらに長く待たされたという。

 雑誌記者の美智(倍賞千恵子)は取材のため、子どもの直樹(上屋健一)とゆう子(原口祐子)を広島郊外に住む父母(森繁久弥・高峰秀子)に預けることに。早速チョウを追いかけて飛び出した直樹は歩く椅子(宇野重吉)を見かけ、後を追って廃屋にたどりつく。逃げ帰った直樹だが、翌日、いなくなったゆう子を探しに廃屋にいくと、椅子とゆう子が遊んでいる。椅子は「この子はうちのイーダ」だと言って直樹を追い払う。直樹は恐怖と不安からその夜熱を出す。

 一方、美智は広島で、「友達」のカメラマンの広岡(山口崇)とともに「瀬戸内の若者」の取材を続ける。途中、住職を訪ね、被爆経験について取材しようとするが、追い払われる。そんなことを取材してどうする、という広岡に、美智は自分が被爆者であり、今回の取材は原爆病院での検査を兼ねてのことだと打ち明ける。

 直樹が廃屋から持ち帰ったカレンダーを見た祖父は、直樹にその日付けが原爆が落とされた日であること、原爆の被害の様子などを写真集を見せながら語る。廃屋に住んでいたおじいさんとイーダも広島で亡くなったんだろう、と。
 椅子は相変わらず、ゆう子をイーダだと言ってきかない。苛立った直樹は椅子に写真集を見せながら、イーダは死んだ、あれは妹のゆう子だ、と言う。椅子は「イーダだという証拠に、背中に三つほくろがある」と言うが、直樹がゆう子のワンピースを脱がせると、そこにほくろはなかった。動かなくなった椅子に、直樹は後悔する。
 その夜、帰ってきた美智は、両親に広岡と再婚すると告げるが、両親からは被爆を理由に反対される。椅子はイーダを探しに広島に向かって歩き出す。

 8月6日。家族の名が刻まれた墓石をさすりながら泣き崩れる母。それを遠くから見守る広岡に、母が「あの人にもお線香をあげてもらいなさい」と言う。灯籠流しが始まり、母・美智・直樹は灯籠を流す。ゆう子を抱いた父がそれを眺めながら、広岡に家に来るように言うが、広岡はあらためて正式にプロポーズに伺うと答える。
 苦労の末に広島にたどりついた椅子は、イーダを見つけることができず、しかし何があったかを理解した。川に落ちた椅子は川底で死んだイーダと出会う。川底の死者たちは椅子に、自分がここにいる、骨を拾ってくれと家族に伝えてくれと口々に頼む。

 美智の検査結果は「異常なし」だった。親子3人は河口に近い砂浜で海水浴をする。美智はふと直樹が熱を出したことに不安を覚える。直樹は河口で打ち上げられた灯籠の中にバラバラになった椅子を見つける。直樹は椅子を組み立て直すが、椅子はそのまま海の向こうへ流れていくことを選ぶのだった。

 

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2017/02/26

雲の上団五郎一座

 初映画は新文芸坐の喜劇特集。「南の島に雪が降る」との2本立て。有名なのに見る機会がなかったんだよなあ、2本とも。

 地元の親分(藤木悠)と団員との女のトラブルで興行先を追い出された雲の上団五郎(榎本健一)とその旅回りの一座。次の興行先へ向かう船で乗り合わせた「新しい演劇運動の精神」を熱弁する演出家の酒井(フランキー堺)と、その教え子で興行主の娘はるみ(水谷良重)と組み、「悲劇ラブミー牧場」を上演する。そのあまりの出来の悪さに興行主(花菱アチャコ)は倒れてしまうが、レコードのかけ間違いのトラブルが客に大受け。酒井は舞台をそのまま喜劇に転換、連日大入りにしてしまう。
 困ったのはライバル興行師で、自分のところの女剣劇には全然客が入らない。女剣劇一座は一計を図り、団五郎一座の中心の役者(由利徹ら)を飲ませて出演できないようにしてしまう。困った酒井は自ら「勧進帳」の弁慶を熱演。ついに大阪の大劇場から興行の依頼が入る。大阪でははるみのカルメン、酒井の闘牛士、団五郎の隊長による「カルメン」を初演、大当たりをとるのであった。

 懐かしの新喜劇大集成!(当時は「懐かしの」じゃないんだけど)みたいな映画。冒頭の小坊主(道成寺の扮装)とヤクザたちの墓地での追いかけっこギャグから始まって、あったあったこんなネタ!が満載。なにせ原作が菊田一夫だもんねえ。大阪の興行主が高島忠夫、倒れた興行主を診る医者は藤田まこと。三木のり平、八波むと志、佐山俊二と当時の喜劇人総出演。
 フランキー堺演じる演出家の酒井は、ことあるごとに「演劇の精神とは何か」と熱弁をふるう。もちろんこれは「演劇運動」のパロディなんだけど、酒井の「演劇の精神」は、「観客を喜ばせること」に収斂されていく。「大衆が求めているものはなにか」を誇らかに提示するところに、監督や脚本演出まで含めての「喜劇人」の矜持を見るわけだな。由利徹らが女剣劇一座に飲まされて劇場に来ず、酒井が自ら弁慶をやる、と言ったときに、団五郎らは止めるわけですよ。セリフも入ってないでしょう? それを酒井が「精神だ、精神があればできる!」と言って舞台に出て行っちゃうんですな。もちろん、セリフは字数だけを合わせたメチャクチャな、元祖ハナモゲラ語とでもいうようなもの。演出家だから段取りはわかってるんだろうけど、縦横無尽にグランジュテまでやってみせながら走り回る酒井に観客は大喜び。遅れて戻って来た由利徹らに団五郎は「何やってんだ、先生は精神だけで勧進帳やっちまってるぞ」ってね。ここまでくると、最初は高尚なはずだった「精神」そのものがもうパロディになってしまったともいえるし、逆に本来の演劇の精神に目覚めた、ともいえるのね。なにせ、最後のカルメンでは牛役の二人が「先生、この牛の精神はなんでしょう」って大まじめに聞きにきて、酒井をきょとんとさせるくらいで。カルメンの闘牛士の歌う「牛殺しの歌」も好きだなあ。

 それにしてもフランキーの弁慶は本当に必見。すごいよ。

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2016/09/28

劇映画「沖縄」第1部のいち

 「えこだ沖縄映画祭」(こちら)で、劇映画「沖縄」第1部・第2部を見る。第1部65分、第2部125分でえらく配分が悪いと思ったら、元々1本のインターミッション入り映画だったのね。それにしても配分は悪いんだけども( ̄▽ ̄)。

 1970年公開となってるけども、製作した共同映画社のHPによると1969年製作上映とある(こちら。←( ・`ω・´)キリッとした地井武男がかっこいいぞ!)。監督・脚本は武田敦。製作の中に山本薩夫の名前がありますが、スタッフロールの製作委員会的な(正確に覚えてない)人々の中には今井正の名もあったかと思います。地井武男の初主演映画。

 第1部「一坪たりとも渡すまい」 

 テロップは「昭和三X年」。三郎(地井武男)一家、清(石津康彦)一家らが、荷車に家財道具を積んで移動しているところから始まります。彼らは謝花の米軍用地接収で土地を取り上げられ、平川(架空の地名?)へ行けば土地も仕事もあると言われてやってきたものの、その平川でも同じように土地接収が始まろうとしていた。「平川土地を守る会」は古堅(中村翫右衛門)を中心に、話すときには手を肩より上げない、などの取り決めを守りながら米軍と交渉していた。その話し合いのさなかに三郎と清、たまたま出会った黒人とのハーフの少年・亘(子役)とは、米軍トラックから測量用のポールを盗み出す。それに気づいたワタルの姉・朋子(佐々木愛)は、ワタルに泥棒を教えるなと怒るが、三郎は「ウチナンチュの物を盗んだら泥棒だが、アメリカーの物を盗むのは戦果だ」と悪びれない。

 三郎一家と清一家はキャンプハンセン(だったと思う)の従業員募集に応募するが、三郎と清は未成年だということで雇ってもらえなかった。むしゃくしゃした三郎は、清を巻き込んで米兵から毛布の束をくすねる。米兵に追いかけられた三郎は、毛布の束を、野菜売りをしていた朋子のリヤカーに突っ込んで難を逃れるが、朋子は自分の取り分として半分近くをちゃっかり持っていく。弟と年取ったおばあを養うのに仕事は選んでいられない、という。3人は門中の山城(加藤嘉)に畑や売り物の野菜を借りて、細々暮らしていた。その山城は、米軍の接収予定の地図を手に入れ、アメリカに留学予定の息子・朝憲(岩崎信忠)に訳させて、集落の接収される半分を見殺しにする算段を始めた。
 ある日、三郎は朋子を青年会の毛遊びに誘うが断られる。その夜、朋子の家に母が帰ってくる。亘の父親の米兵が朝鮮から帰ってきたので、亘を連れにきたのだ。朋子は家を飛び出して毛遊びに行くが、亘が追ってくる。その席で、朝憲の接収予定地図についての諍いが起きる。

 夜中、米軍がやって来て、銃剣とブルドーザによる土地接収が強行される。朝憲は父に「なぜ鐘を叩かないのか」と問うが、山城は「鐘は叩かないことになっているし、叩いても誰も行かない」と答える。
 古堅の家では息子の政孝(杉本孝次)が、何度陳情しても無駄だと父をなじるが、古堅は信念を変えない。学校帰り、政孝と朝憲は、古堅たち「土地を守る会」の一行が、琉球政府の前で三線を弾き、窮状を訴えて座っているのに出くわす。近くの店の人・歌声に集まった人々が涙を流してそれを聞き、店の品物やカンパを置いていく。自分も泣きながらそれを聞いていた政孝は、靴を脱いで古堅らに加わる。

 演習が始まった。三郎と清は演習場での不発弾拾いを始める。父らの運動を支える決心をした政孝がそれに加わり、朋子と亘も小さな薬莢を拾い集める。ある日、米兵に見つかった彼らはなんとか逃げおおせるものの、清が逮捕されてしまった。山城は、畑の多くを接収されてしまったので、朋子のおばあに貸している畑を返せ、と迫る。そんな時、畑にいたおばあは演習機の機銃掃射で殺されてしまう。

 おばあの葬式の場で山城は、朋子の家の墓は演習地の中にあるので、おばあは近くの山に埋める、と言う。朋子は、おばあはおじいの傍に行きたいと言っていたのだから、なんとしても演習地の中にある墓に埋めると言う。三郎たちがそれに加勢し、一同は葬列を組んだ。その途中で清が、ボリビアに行くことになったと告げる。清が逮捕されたことで、両親が米軍のパスを取り上げられてしまったのだ。葬列はゲートを突破し、墓へと向かう。
 

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2015/12/05

「家路」アップしました&ここ最近のぼくだったら

 こちらではご無沙汰しております。特に体調が悪いってほどでもないんだけど、とにかく眠くて( ̄▽ ̄)。仕事の方も、年末に向けて立て込んできてるんですが、ここへきてパートさんに妊婦さんが……というわけで、つわりが治まるまでとはいえ、もう三週間ほど出勤してないもんですから、その分こちらが残業ということになるわけですな。まあ、つわりなんで、待ってりゃそのうち出てくるだろうっていうんでですね、病気で入院とかいうよりはこちらも気楽なんですが、過去の事例だとそうこうするうちに「もうつらいから辞める」ってパターンがありまして、そうなるとこちらも大打撃。このクソ忙しい時期に新人の研修とかしてらんないからねっヽ(`Д´)ノウワァァァン! しかしまあ、10人もいないパートさん(今年は5人体制)なのに、毎年一人は妊婦さんが出るなあ。少子化ってなにそれ食べられるの。

 ええと、そんなわけで、まとまったことは書いてないんですが、昨年インパクションに載せた「家路」のレビューを格納庫にアップしました(こちら)。内野聖陽が暑苦しく、松山ケンイチが意外と軽やかで、田中裕子はもう神。原発事故で避難区域となった村の物語ですが、むしろ「家からはぐれた者にとっての「家」」という映画でもある。なかなか好きな作品です。
 あと、映画のインデックス(こちら)も、リンクを貼らずにたまっていた分を更新しました。こういうちまちました仕事も、普段はなかなかやりづらい。

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 ツイッターの方にもあげた写真ですが、先だっての帰り道に萩が咲いているのをみつけました。萩って、12月に咲くんだったか(・_・)?

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2015/08/20

わだつみの声(旧作)

 ごぶさたになっておりますm(__)m。新文芸座の恒例、戦争映画特集。第一部が広島行きと重なって見られなかった恨みもありまして、第二部を1週間で7本観たら、何がどの映画だったのかわからなくなりつつあるという( ̄▽ ̄)。1日2本立てなので、まあ半分見てる計算ですな(ラインナップはこちら)。
 昔ながらの名画座のスタイルを踏襲して、2本1300円。入れ替えなしなので、映画館から出なければ、繰り返しいくらでも見られます。ラスト1本(最終回)は850円。自分は友の会に入ってますが(年2000円)、とっくに元を取ってる上に、次はポイントでただで見られるのだ( ̄▽ ̄)。そしてワタクシと一緒に入る人は友の会料金(2本1050円)で見られるのだ。わはは。

 つことで、「わだつみ」から行きますか。いわゆる「旧作」、1950年版の方です。「日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声」が正式名称。実は、多分「学徒出陣50年」の記念イベントだったと思うんですが、朝日新聞でやった上映会(岩垂氏の解説つき)で一度観てるんですよね。なんですが、なにせ会社帰り、30分近く遅刻しまして、観られたのが「大木助教授による最後のフランス文学の講義の回想」の直後辺りから、というのが今回判明しました。おかげで前回は人間関係が全然わからなかったんよ……。20年ぶりにすっきりした。

 舞台はビルマ戦線。原隊にはぐれた大木二等兵(信欣三)と鶴田上等兵が、柴山少佐の部隊に偶然拾われるところから始まります。日頃からなにかと学徒出身兵をこころよく思ってない少佐と兵長。しかも、大木が実は東大のフランス文学の助教授で、牧見習士官がその教え子であったことが発覚。大木はいやがらせを受けながらも、やはり学徒出身の青地軍曹(伊豆肇)の分隊に繰り入れられる。分隊にいた河西一等兵は、東大で学生運動をやって検挙され、「アカの学生が涙ながらに転向」との報道つきで前線に送られた。河西と大木は互いに「なぜこんなになる前にもっと戦争に反対しなかったか」と後悔しあうが後の祭り。

 命令が下って部隊が移動することになる。動けない兵隊は置き去りにすることとされており、慶応出の軍医が判定することになる。「病兵」として残された中には、美大の箕田ら学徒兵も入っていた。
 移動の前夜、河西らが翌日の強行軍に備えて少佐の馬をつぶして喰う算段をしていた。気づいた青地は「小隊全部でやろう」と馬をつぶし、置き去りにされる病舎の兵たちにも分配する。ところが病兵が吐いた中から馬肉が発見され、青地が制裁を受ける。見かねた河西が名乗り出るが、副官に連れ出され、射殺される。部隊は移動し、病兵らには手榴弾が配られる。

 移動した先の陣地は猛攻に逢い、部隊はすでに全滅に近い。目をやられた軍医は、毒薬の注射で自決する。横穴深く隠れていた少佐と副官は数名の兵を連れて、逃亡を図る。それをみた青地は「戦争なんてナンセンスだ、誰がこんなものを始めたんだ」と吐き捨て、木の枝に白旗をくくりつけて歩き出すが、直撃弾を受ける。被弾して息も絶え絶えとなった牧を大木が抱きながら、最後の授業で語り尽くせなかったモンテーニュについて語るが、その大木も被弾し、かくて部隊は全滅する。その亡骸から霊が立ち上がり、海へ向かい歩き出す……。

 てな具合で。「死んだ人々は、還ってこない以上、生き残った人々は、何が判ればいい?」という冒頭の字幕は、ジャン・タルジューの詩(渡辺一夫訳)であると、わだつみ会のHPに出ておりました……という一事をもってわかるように、やっぱりインテリ・エリートなんだよな、「学徒」っていうのは……。今の「東大生」とは比べものにならない特権階級なんだよな……。つことで、いろいろと難しい。片方に「拝啓天皇陛下様」みたいな、字もろくすっぽ読めなくて、軍隊は雨が降ったら屋根があっていいなあ、みたいな兵士がいて、もう片方にモンテーニュだ、チャイコフスキーだ、セザンヌだ、っていう兵士がいるわけですよ。なんかっちゃ、詩なんか暗唱された日にゃ、とりあえず殴るくらいのことはしたくなるのも無理はない……と、20年前に見た時は思わなかったけど、今回は思った( ̄▽ ̄)。そうした上官(ないし憲兵など)の無教養を人品の卑しさとして嗤うような場面ていうのはどの映画でもあるけど、ねえ。学徒兵の方は、そういう階級差には無頓着だから、なぜ反目されるかもわからないし、自分たちだけで学生生活の続きをやろうとするような。だって牧のところにくる婚約者の手紙って、「先日、新響を聞きに行ってきました、あなたと聞いたあの曲がかかりましたのよ」みたいな話で(←で、かかるのが「白鳥の湖」4幕の、王子湖に帰還! のアレ)、ビルマの現状からもかけ離れてるけど、そもそも世間からもかけ離れてるよな……。回想で延々と盛り込まれる、大木のモンテーニュの授業とかね。インテリっていうのは死ぬのにどれだけ理屈がいるのか、と思い、だからこそ理屈にからめとられるのかもしれないなあと思い。

 そうした中で、青地が部下の人心をまとめられるのはそのバンカラさと率直さによるのだろうし、画学生の箕田が(比較的)愛されるのは、彼の描く絵(故郷の風景や戦友)が「教養」とは無関係に「わかる」ものだからなんだろうな。学徒兵、現役兵、補充兵と、若いほど階級が上になるという「不条理」もあってこの3つの「階級」の間の溝は多くの作品に現れるけど、なんかもうこれで上手くいくわけないじゃん……という気もわいてくるわけで。

 「戦後初の反戦映画」と言われるとおり、戦後5年目に作られただけあって、特に冒頭の敗走する大木や、なんとか部隊について行こうとする片足の病兵の泥まみれの感じとかは、ちょっとほかにないだろうという気がする。あと、連合軍のスピーカーで流される降伏勧告の放送。これが日常的に流されるのはこたえるだろうなあ……。今みると「類型的」な部分もありますが、むしろ本作から派生していって「類型」となったのだろうと思います。観る順番で印象って変わるからな。

 あれがない、これがないというのは簡単なんだけど、それを全部ぶち込んでみたらどうにもならないものが出来たというのが95年の「新版」なんだよな……orz。以来、作品というのは「あるもの」を解釈すべきだというのが持論ではあるんですよ。

 ともあれ、これが日本の戦後の「反戦」映画の「出発点」であったわけです。

 

 

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2015/08/13

Tomorrow/明日 ちょっとだけ

 広島へ3泊4日で旅をして、何かちょっと飽和状態になったような気がして、このかんのTVドキュメントの類いも録画しっぱなしだったのですが、岩波の「黒木和雄戦争レクイエム」特集上映の「Tomorrow/明日」へ行ってきました。88年の封切りの時に見たきりで、だいぶ忘れてることも多かったけど、やっぱりこの映画好きだな。前売り買っちゃってたんで、割に無理無理な感じで行ったんだけど、見て良かった。原作、井上光晴だったんだな(←初めて知ったような)。

 1945年8月8日午後。長崎市内に住む、三浦家の次女で看護婦のヤエ(南果歩)と、病気持ちで兵役免除になった工員の中川(佐野史郎)の祝言が、三浦家で行われる。その祝言に集まった人たちの、9日11時02分までの24時間を描いたもの。でも「主役」はやっぱりヤエの姉のツル子(桃井かおり)だろうなあ。クレジットも最初だし。

 とにかく、キャストが全部いいんですよ(こちら)。田中邦衛にはずれなし! はもちろんのこと、臨月で、9日の夜明けに出産する桃井かおりも、三姉妹の母の馬渕晴子も、伊佐山ひろ子も入江若葉ももちろん佐野史郎もいいんだなあ( ̄▽ ̄)。仙道敦子や南果歩もまだ初々しいというか。ちょこっとだけの殿山泰司とかね。

 まだもうちょっとやってるので、ぜひぜひ、というわけで、予告編を貼っておく。

 岩波ホールの記事はこちら。18:30の回には、短編「ぼくのいる街」が付きます。「10分映画!運動」が作った23分の映画( ̄▽ ̄)。写真集「戦争と銀座」を元に、1月の銀座の空襲で死んだ男の子が現在の(89年。つまり昭和天皇の死んだばかりの)銀座を行く。これはこれで。

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2015/07/05

観ることは観てる

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 不忍の弁天堂にある琵琶。なんだ、「琵琶像」ってのも変だし、「ブロンズ製の琵琶」でもないし、なんていうんだ。ちなみにここの弁天様は寛永寺の所属。
 
 左ブロックにある「こんなん行きました」が4月から滞っていたので今日時点に更新したら、精魂尽き果てました( ̄▽ ̄)。映画ばっかり見ていると今に尻尾が生えてくるぞ、オレ。

 しかし、今年も大量に映画を観てますが、新作の劇映画を1本も観てないというのはどうしたもんかと。樹木希林の出るヤツ(東慶寺のやつと「あん」と)は観たいんだけどねえ。夏に向かって、いわゆる「戦争物」が何本か封切られるので、そのうちの何本かは観ないとならないんだと思うんですが……やだなあ。今世紀に入ってからのは観る気しないんだよねえ……。

 今日は「幕末太陽伝」と「愛のお荷物」の二本立て。「太陽伝」も実はまだ観てなかったんだな……。うちにVHSで撮ったのはあったんだけども。「愛のお荷物」は産児制限コメディーなんだが、久しぶりに「ドラマー・フランキー堺」を観ることが出来て嬉しいという。

 全然、アウトプットできてないですが、まあどうしたものかと。はああ。


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2015/05/20

大野一雄と大津幸四郎 2

 ダンチェンコが開幕してますが、自分は今回土曜ソワレ一回きりです。白鳥は予習兼ねてなんで、気合い入れて見ますよ−。山海塾と重なってなけりゃなあ。

 つことで、続きです。

 前回聞いたトークともかぶっていた話ですが、大野一雄という人は基本的に(というか多分全部)即興の人で、「魂の風景」も全部即興。最初の撮影のときはそれがどういうことか今ひとつわかってなくて、最上川を下る(上る?)船の上で踊る場面が最初だったんですが、まずリハで1度やって、リハだから大津氏はまだカメラを組み立てて、しかしその1回めが非常によかった(でも撮影できてない)。何度リテイクしても最初よりよくならない。そうこうするうちに日が暮れてきて、夕闇の中で撮ったのがいい感じだったのでそれを使った、と。

 で、それに懲りて次からは全部一発撮り( ̄▽ ̄)。いくつかリテイクした場面もあったそうですが、基本は一発で、動く範囲(大体ここら辺で、くらいの)とコンセプトみたいなものは打ち合わせをするんだけど、後はどう動くかわからない大野氏を大津氏がひたすら撮る(←監督はほぼ傍観)。それをラッシュで見た時に、監督は舌をまいたそうです。フレームだけではなくて、特に距離の取り方が絶妙だと。
 ドキュメンタリーのキャメラマンといってもいろいろで、インタビューを中心に撮っていくのとは違って、こういうハプニング的なものはやっぱり三里塚なんかの経験が活きてるんだろうなあと自分などは思ってしまうんですが、監督はむしろ、水俣の経験が活きてる、というんですね。被写体というか、撮る相手との距離の取り方(心理的な)において。それはそれで、確かになあ、という。

 大津氏自身が話していたところによると、映画の中盤にある小学校の「むすんでひらいて」の場面(というのが、実際の撮影ではいつ頃なのかはわからないんですが)、あそこで初めて大野氏が、大津さんに向けて踊った、と言うんですね。向き合って、というよりも、話しかけるように、というニュアンスだと思うんですよ。撮りながらそれを感じたので、そこから撮り方が変わった、というような。
 監督の話では、そういう具合でとにかく大野氏から出るすごい気というか、オーラというか(なんと言ったか正確には覚えてないんですが)、大津さんは撮影しながらそれを浴び続けたと。それが後年の「ひとりごとのように」につながったということなんですね。

 やっぱり「大津幸四郎」といえば硬派のバリバリみたいな印象で、大野一雄とはあまり結びつかないように思っていたんですが、一連のトークで腑に落ちたように思いました。

 「ひとりごとのように」では、大野一雄氏が、音楽が終わろうがなんだろうが延々と踊り続ける場面が何度かでてくるんですが、平野監督がちょっとそれを彷彿とさせるようなしゃべりっぷりだったなあ( ̄▽ ̄)。マイクもすぐに降ろしちゃって、そのまんまでしゃべってるという。

 平野監督によれば、大野一雄氏の踊りというのは、外へ外へと開放的で、一言で言えば「愛」であると。で、慶人氏の踊りは逆で、内へと向かっていってそこから何かが生まれるという、どちらかといえば「暗黒」の方。それは自分も最初に映画を観たときから感じていて、だからこそ慶人氏に興味を持って何度か観に行ったりしたんだけど、一雄氏が亡くなったことで「大野一雄の伝道師」みたくなっちゃって、ちょっとつまんなくなっちゃったなあ、というのも正直なとこだったりします。

 あ。「魂の風景」の方、慶人氏が白塗・剃髪で背広着てる場面が一箇所出てくるんだけど、やっぱり「すけきよ!」って思ってしまって、犬神家の呪いもなかなか解けないもんだと思ったりもしました( ̄▽ ̄)。

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2015/05/16

大野一雄と大津幸四郎

 ええとすみません、いろいろアレでコレですが。横浜シネマリンでやっている大津幸四郎追悼特集(こちら)に行ってきたのでそちらを。
 大津幸四郎といっても、ここをいつも見てくださる方だと知らないかも−、なんですが、ドキュメンタリー映画の業界では知らなきゃモグリ(と言いたい)、というキャメラマン。なんかね、写真撮るのは「カメラマン」、映画撮るのは「キャメラマン」って、なんとなくそういう感じがするな。個人のイメージですが(ちなみに劇映画も撮ってます
 小川伸介、土本典昭と……といってもそこから説明がいる気もするけど、そうした監督さんたちと組んで、数多くの作品を遺してますが、昨年監督した「三里塚に生きる」が遺作となりました。映画の完成は間に合ったけど、一般公開を前に、急逝……。

 ここの読者に比較的近いところで言うと、舞踏家の大野一雄の最晩年のドキュメンタリー「大野一雄 ひとりごとのように」(2005)の監督でもあります。今日はその「ひとりごとのように」の上映と、「三里塚……」の共同監督の代島氏、大野一雄の最盛期の映画「魂の風景」(1991)の監督、平野克己氏のトークのセット。「ひとりごとのように」を最初に見たのは大野氏が亡くなったときの追悼上映会だったけど、今また大津氏の追悼上映会でそれを見ようとは……(ノ_-。)。。。。

 映画についてはまたまとめるかもですが、とりあえずトークの方の話など。トークの始めに参考映画として、「魂の風景」を30分ほど上映しました。最初の沼の中で踊るところから、小学校で「むすんでひらいて」を歌う子どものところまで。その後、30分か40分くらいのトーク。
 「魂の風景」も大津氏の撮影で、以前にやはり大野氏の特集上映でほかの映画と一緒に見たことがあって、確かポレポレだったかな−、大野慶人氏(一雄氏の次男で研究所の後継者)のトークがあったよなー、などと思ってたんですが、さっき調べたらオーディトリウムでの上映で、平野氏、慶人氏と大津氏本人のトークだったよあははははは(こちら)。

 そんなわけで、前に聞いたような話もあれば、新しい話もあり。平野監督がなにか大野一雄化してた気もしたり(なんのこっちゃ)。

 今回は大津氏の追悼特集なので、話は大津氏についての方がメインに。大津氏は同業者から「手持ちカメラで撮影しても絶対ブレない。(撮影用の)レールにのせて撮影してるかのよう」と言われたキャメラマンで、そらもうすごい人なんですよ、くどいけど。平野監督は「圧殺の森」を観て、一度このキャメラマンと組みたいと思っていて、そこから20年以上経ってから学生時代(日芸)のグループで映画を撮ろうという話になったときに、大津氏を思い出して依頼に行ったそうです。一本は原田芳雄と石橋蓮司が出演した劇映画「出張」。もう一本が「魂の風景」。「一本は劇映画、一本はダンスの映画を撮ろう」と決まって、当時絶頂の大野一雄を、となったらしい。平野氏も別に大野氏を知っていたわけではないらしく、半年ほど稽古場と公演に通ったそうです。大津氏の方は「出張」を撮り終わったあと別の仕事に入って、その後ロケハンの頃に合流したらしい。要するに、二人とも最初は「依頼仕事」みたいなもんだったようですね。

 続く。

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